ピーター・ゲイの訳書「モーツアルト」を読んで


岩波書店、ペンギン評伝双書、高橋百合子訳、

ピーター・ゲイの訳書「モーツアルト」を読んで

(岩波書店、ペンギン評伝双書、高橋百合子訳、)
 


   アメリカのイエール大学の歴史学名誉教授のピーター・ゲイによる「モーツアルト」が刊行された。著者は、ヨーロッパ比較思想史を専門としており、18世紀から20世紀にかけての文化史研究の第一人者と言われる。音楽学者や伝記作者によるモーツアルト研究が進み、多くの著作があるモーツアルトについては、大歴史家にとっては、父子の多数の書簡に囲まれた天才作曲家モーツアルトの生涯は、実に興味深い文化史研究上の、また趣味の音楽的関心を引きつける格好の材料に見えるのであろう。

 この本は特にソロモンのモーツアルトに触発されて書かれたようであるが、かなり多くの参考文献に触れられており、音楽関係者の著作にはない著者独自のモーツアルト解釈を志そうと考えたに違いない。著者による参考文献レビューも丁寧であり、豊富な資料の綿密な解釈に基づいて、歴史学ないし文化史的な他の著作にない視点から、モーツアルトの生涯の洞察を行ったものであろう。本書は、神童、息子、従僕、独立して、貧しい男、巨匠、劇作家、古典、の項目に章立てされ、この項目に沿って、モーツアルトの史実と生涯を概観し、思うところを述べている。

 「神童」では、「モーツアルトは間違いなく天才、それもどんなに冷静な伝記学者でも否定できないほどの天才であった。」とズバリと書く。伝記に出てくる奇跡とか謎めいた話とかで飾り立てなくとも「音楽家としての生涯は、十分に魅力的であり、その天才としての名声は、平凡な真実を並べたところで色褪せることなどない」と言い切っている。

 「従僕」では、何世紀もの間、芸術家は−彫刻家、画家、詩人、劇作家、建築家、作曲家、演奏家−は権力の従僕に過ぎなかったが、18世紀になると、新しい関係が出来てくる兆しも現れてきたという。劇作家や画家が、パトロンでなく市場に身をゆだねることも考えられないことではなくなったと例を挙げ、モーツアルトの言動を注視する。ザルツブルグでは、大司教はモーツアルト父子を評価しており、二人に宮廷、大学、教会などのために沢山の作曲や演奏を依頼している。
 作曲家としても演奏家としても活躍できていたにも拘わらず、モーツアルトは自分の生まれた町を軽蔑し、絶望的な奴隷状態を嘆いていた。しかし、ミュンヘンからウイーンに呼び戻され、ウイーンで大司教の命に従って演奏活動をしているうちに、楽しいはずのウイーンでも大司教の下では、ザルツブルグと何ら変わらないことにモーツアルトは初めて気がついた。それでモーツアルトは爆発する。ここで著者は、真摯な音楽家は社会的に高い地位にあるはずだというモーツアルトの主張は、パトロンを一蹴した芸術家のオーストリア版につながるという。

   「独立して」では、18世紀後半のウイーンには、音楽と、劇場と、出世の機会が溢れた魅力的な場所であったとし、音楽好きの貴族が多く、なかでもスヴィーテン男爵のサークルで対位法に再会したことの重要性を指摘する。ウイーンでフリーな作曲家として活躍できたモーツアルトは、ウイーンの10年間の前半において、多くの観衆を喜ばせるために、「考えられる限りのあらゆる楽器の組み合わせを試み、室内楽や協奏曲でこれまで考えられなかったようなことをやって見せた」という。

 「貧しい男」では、「モーツアルトにはどんなに金がないときでも、精神的に最悪の時でも、絶対に外せない贅沢があった」とし、「彼は欲しいものは何でも買った。自分の欲求を抑えられないところ、このこらえ性のないところだけは、いつまでたっても子供のままであった」という。そして、「この贅沢な生活は、かれの頭の中では、虚栄心と地位にともなう不安が結びついていた」としている。

 「巨匠」では、ハイドンとの比較において、ハイドンが四重奏曲でやり遂げたことを、モーツアルトはピアノ協奏曲で成し遂げているとか、最後の三大シンフォニーの作曲は、ハイドンの影響から、ロンドンでの演奏会を考えていたのではないかと言う大胆な推測をしている。「劇作家」では、「ダ・ポンテがダイアログに対して確かな耳を持ち、演劇に対する感性も確かな詩人であった」とし、ダ・ポンテの筋書きに、足を引っ張られたと言うよりも、むしろ霊感を受けたのではないかと考えている。そして、ウイーン時代のオペラの筋書きを、確かめるように細かく考察している。

 最後の「古典」では、レクイエムが未完に終わったことに触れ、「レクイエムに対するジュスマイヤーの貢献をめぐって今も議論があること自体が、彼の仕事に対する賛辞とも言えるであろう」と述べている。また、彼の死については、最後の年においては彼の創作力は全速力で稼働しており、「10月14日の最後の手紙や11月15日の小カンタータの作曲などは、かなり体調が良かった証拠であり、手紙から考えても最後の月まで死の影とは縁がなかった」という。そして健康から死への急変は、この時代には珍しいことではなかったとし、もし彼を殺した犯人を求めるとすれば、それは何度も瀉血しかしなかったウイーンの善意な医者達であり、モーツアルトはその最も有名な犠牲者の一人にすぎなかったという。

 著者らしい鋭い洞察の一部をここにそのまま紹介してみたが、このわずかな紙面では、著者の意図を反映したとはとても言えそうもない。もしこれらの中に、おやと思う箇所がある方は、是非本書をお読み頂きたい。ソロモンや海老沢先生の本のようにうんざりするほど長大でなく、訳書も比較的読みやすい。また巻末の三浦雅士氏の「モーツアルトは我らの同時代人」を読めば、文化史・音楽史全般にわたるこの本の位置づけも自ずと明確になるであろう。

(以上)(2002/08/10) 



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