ランドンの「モーツアルト、最後の年」を読んで


M'ozart's Last Year by H.C.Robbins Landon

ランドンの「モーツアルト、最後の年」を読んで、

1、はじめに、


 待望の "H.C. ロビンズ・ランドンのMozart's Last Year" が2月に中央公論社 より、海老澤先生の訳で出版された。あの"Golden Years"を感動して読んだ小生に とって、それより先に出版されたこの書物は、書簡全集とともに読まなくてはあの世 にいけぬほど、待ちくたびれたまさに待望の書物だったからである。一気に通読し、 そして何回か読み返しながら、他の書物では得られなかった新たな知見などに触れな がら、読後感を整理しておきたいと思う。

2、映画「アマデウス」との関連について、

 モーツアルテイアンを自負する者にとって、あの「アマデウス」のモーツアルト は、本当なんですか、とか、モーツアルトの新しい研究成果が取り入れられて、イ メージが新しくなりましたね、とか問われると、いつも回答に窮し、「本当のところ もあり、そうでないところもある」などと、曖昧な回答しか出来ない自分を歯がゆく 思っていたからである。

確かにこの映画における18世紀の宮廷の描き方とか、ヨーゼフ二世を取り巻く登場 人物などは、場所がウイーンでないことを除くと、実に見事な描写であったし、モー ツアルトの結婚式や葬儀後の見送りの顔ぶれなどを考えると、史実を理解する者に とって納得させられる場面も多かった。しかし、この本が否定するレクイエム伝説 を、あたかもサリエリを使って真実に見せかけたり、ザスロウ教授などが否定する作 曲のプロセスにおける天才についてのロマン的な考え方(注1)をさらに強調して大 衆化させた罪の側面が、余りにも大きいと著者は判断していると思われる。

この本を一読して、答えに窮したこれらの質問に対しては、これからは少し難しい かも知れないが「興味があれば、ランドンの本をお読みなさい」ということにしたい と思う。


 ランドンの叙述は、他の類似の研究書と異なって、実に読みやすく書かれている。 中央新書で出された石井宏先生の訳の「モーツアルト−音楽における天才の役割−」 もそうであったが、実に分りやすい著作である。ややこしく難しいことを、分かりや すく平易に書くことが実に巧みであり、広くあたった史実から巧みに推論を深めてい く手口は、とても類書にない本書の特徴である。まさに「アマデウス」で刺激を受け た人々には、恰好の書物ではなかろうか。

3、 オペラ「テイート」の周辺事情、

 オペラ「テイート帝の仁慈」は、わずか18日で書かれたと伝えられている。しか し、何故そうなったかの前後の事情が曖昧であったが、第8章プラハへの旅で明らか にされる。このオペラの作曲の依頼の経緯が、まずハイドンに依頼され、次いでサリ エリに依頼され、たらい回しにあったこと、そして最後にモーツアルトへ来た時に は、9月上旬の戴冠式のおよそ2ヶ月前であったことなどは面白い。それから、原作 を2幕のオペラにするなどの宮廷詩人マッツオラとのテキストの改訂共同作業があっ てはじめて、作曲が始められることになる。

 また、オペラの作曲時間が少ないこともあって、1791年4月26日に開催された慈 善演奏会において、プログラムの第6曲目のドウシェク夫人により歌われた「ロン ド、バセットホルン助奏付、モーツアルト氏作曲」がテイトの有名な第23曲ではない かと、驚くべきことが指摘されている。91年4月の時点で、何故自筆作品目録に記入 されなかったかを含めて、「テイート」の余りに短い作曲期間やマッツオラとのテキ スト改訂との絡みの中に、真相が隠されているものと思われる。

4、レクイエム伝説に関すること、

 ニーメチェクやロホリッツなどによるレクイエム伝説がくつがえされ、ヴァルゼッ ク伯の依頼であった事実が明らかになったのは、ドイッチュが1964年に論文を発表し てからのことである。その判断の基礎になった「ヘルツオークの記録文書」が、第7 章に詳しく引用されている。私は、この問題の文書をこの本で初めて読んだので、 ヴァルゼック伯爵のやり方やレクイエムの未完成部分の補作に関する部分について も、第三者による見解として良く理解できた。

ランドンが指摘するように、「レクイエム」については、依頼された時期(ほぼ伝 説の時期)と集中して書かれた時期(テイートや魔笛の完成後)とに分けて考える と、最後の年の最後の時期の忙しさや病気の進行との関係が、少しづつ理解できそう な気がする。

5、ミュンヘンキリエ(K.341)について、

ランドンは第5章「転機到来−−大聖堂楽長に就任なるか?」において、最後の年に おけるモーツアルトの教会音楽における関心について述べている。そして、大規模な オーケストラ編成で深遠な曲想を持つ「キリエ、ニ短調、K.341」が、病気の宮廷楽 長ホーフマンが回復する前にミサ曲の一部として「キリエ」の部分を完成したという 仮説を提案し、この曲がレクイエムと表裏をなし、「アヴェ・ヴェルム」とともに教 会音楽の新しい様式を確立した、とまで述べている。

私はそれならば何故モーツアルトが、アヴェ・ヴェルムとともに、彼の自筆作品目 録にこの曲を記入しなかったのかについてこだわっている(注2)。私の考え方は、 総譜で100小節を超える大きな曲は、彼の自筆目録に殆どが記載されていること、コ ンスタンツエがこの曲の存在を記憶していないこと、ミュンヘンで作曲されたという 説をくつがえす程の論拠があるかということに基づいている。しかし、自筆作品目録 に詳しく、先に述べた「テイート」の第23曲のように、この目録にも疑いを持ってい るタイソン先生の研究成果であるだけに、このような新しい仮説についても、十分、 傾聴しなければならないと考えている。

6、おわりに、

「アマデウス」を意識しながら書かれたこの本は、出版された1986年時点での膨大 かつ真正な記録資料に基づいて書かれているので、その意味では大変に成功している と感じた。しかし、我々が訳書を読んでいる21世紀に入った今となっては、資料の古 さがいくつか気になった。例えば、もうひとつのレクイエムとして知られている「ホ ルン協奏曲第1番」や最後の手紙にも出てくる親しかったロイトゲープとの関係など について、石井宏先生が「モーツアルト、その知られざる遺言」(学研M文庫)に書 かれているような、すごい記述が含まれていないのが残念に思った。私は、プラーハ から帰り、魔笛を完成させ、前から約束していたクラリネット協奏曲をやっと完成さ せ、11月18日のフリーメイスン会堂の落成式のためにカンタータを作曲して指揮を し、体調が悪いのにさらに約束していたホルン協奏曲とレクイエムを完成させようと して終に力尽きたと考えることに、モーツアルトの最後のロマンを感ずるからであ る。


 注1、 N.ザスロウ;「ノイエ・ケッヒェル(1996)」

注2、倉島 収;「ミュンヘンキリエK.341と自筆作品目録」  

        (01/04/21)


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