(デジタルテープ06年12月収録;ヘンデル「メサイア」編曲K.572の演奏記録)
9-6-1、ヘルムート・リリング指揮シュトウットガルト・バッハ・コレギウムとゲビンゲン聖歌隊による「メサイア」モーツアルト編曲K.572、1991年エルヴァンゲン教会、

−モーツアルトの編曲では、スコアで確認したわけではないが、通奏低音の二管編成への変更以外にも、合唱の一部をソリストの四重唱に変更したり、本来のテキストがテノールであるのにこれをアルトやソプラノに変更したり、第二部で2曲の省略があったり、かなり手が加えられていた。リリングは、持ち前の緩急・強弱を自在にした力強い指揮を見せ、編曲の効果を発揮していた。−


(デジタルテープ06年12月収録;ヘンデル「メサイア」編曲K.572の演奏記録)
9-6-1、ヘルムート・リリング指揮シュトウットガルト・バッハ・コレギウムとゲビンゲン聖歌隊による「メサイア」モーツアルト編曲K.572、1991年エルヴァンゲン教会、
(ソリスト)S;ドンナ・ブラウン、MS;コルネリア・カリッシュ、T;ロベルト・サッカ、B;アラステア・マイルズ、
(06年12月21日クラシカジャパンの放送をS-VHSテープにD-VHSレコーダーのLS-3モードによりデジタル録画)

 今年はヘンデル・イヤーであり、没後250年記念フェステイバルの一環として多くの行事が行われているが、私は三澤寿喜先生を実行委員長とするヘンデル・フェステイバル・ジャパン(HFJ)を支援する会の会員(HANDELIAN)として、この会の演奏会には出席を重ねている。「メサイア」の演奏はこの会の第7回目のコンサートであったが、今回の「メサイア」は、先生の新校訂による1741年初稿版を用いた本邦初演と言うことであり、しかも先生自らの大曲の指揮ということもあって、この演奏にはかねて期待が大きかった。初稿版のオーケストラは、弦と通奏低音が主体で、途中からトランペットとテインパニが加わるだけであり、これまで聴いてきた「メサイア」とは全く異なる演奏が期待されたからであった。
 「メサイア」の演奏には、ヘンデル自身がいろいろ書き直ししたため版の問題があるが、昔から聞いていたショルテイ指揮のCD(1984)がトービン版、映像では、マリナー指揮のメサイア250年記念の演奏(1991)がロンドン初演に近い版、ホグウッドの校訂したダブリン初演に近い古楽器演奏(1979)の版、リリングが指揮をしているモーツアルトが編曲した版(1991)などが手元にあり、この際メサイアをいろいろな版で聴く機会があった。

 私はどの版においてもこの曲の雄大さや劇的な素晴らしさを伝えていると思うが、今回の三澤先生の初稿版はオーケストラばかりでなくソリストも合唱も、小編成を生かした実に透明感溢れる従来にない美しい演奏であったと考えている。しかし、私の手元にはモーツアルト版が映像では二組、リリング指揮のものと若杉弘とN響による豊田喜代が歌ったもの(1992)の他にCDではマッケラスとORF-SOによるエデイット・マテイスが歌ったもの(1974)などがあり、一番耳に馴染んでいるので、いつかこの曲をK.572としてこのホームページで取り上げてみたいと考えていた。

 

 モーツアルトの編曲は、ヴァン・ズヴィーテン男爵の依頼による一連のヘンデル作品の編曲の一環であり、この曲を当時のウイーンの演奏形態に合わせて演奏できるものにすることであった。ヘンデルの譜面はいわゆる通奏低音で書かれており、内声部をオルガンやチェンバロで充填されていたが、当時オーケストラで用いられていた管楽器すなわちフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンなどにより曲想に応じて内声部を充填していくことが編曲の第一であった。また、当時の教会音楽で一般的であった合唱のトウッテイにトロンボーンを追加したり、演奏不能であったトランペットのパートをトランペットとホルンに分担させることも含まれていた。また、譜面で確認したわけではないが、原曲ではソリストの重唱は二重唱が一曲のみであったが、合唱曲においてソリストの二重唱・四重唱が部分的に含まれていたものが数曲あることに気がついた。
 編曲の用紙には、コピイストによる筆写譜の下が数段空けられており、管楽器のパートが書き込めるようになっていて、また男爵のドイツ語のテキストも書き込まれていたという。初演は1789年3月エステルハージ伯の宮廷で行われ、ソリストにはアロイジア・ランゲ、アダムベルガーなどのオペラの常連の名があった。




 ヘルムート・リリングの演奏は、彼の常連の手兵であるシュトウットガルト・バッハ・コレギウムの面々であり、合唱はゲヒンゲン聖歌隊とされ、エルヴァンゲン教会で1991年に収録されていた。しかし映像では、聴衆は見かけず、ビデオ用として収録されたものであった。ソリストでは、「コシ」や「ルーチョ・シッラ」などで顔馴染みのロベルト・サッカ(T)とバスのマイルズが見覚えのある顔ぶれであった。  映像ではいきなり序曲が開始されていたが、画面ではこの教会の美しい天井画や壁画をクローズアップで見せながら進行し、演奏者などが紹介されていた。オーケストラはコントラバスが2本の標準的な二管編成に見え、ソリスト、オーケストラ、その奥に合唱団という順に配列されていた。



 荘重な緩と軽快な急を合わせたフランス風な序曲が終了してから、弦の序奏の後にテノールのサッカがゆっくりとレチタテイーヴォを歌い出し、続いて早いテンポのオーケストラの前奏に続いて「すべての谷は」とアリアが朗々と歌われていた。弦と管が互いにエコー風に対比させたように響き、オーケストラが厚みのある音を響かせていた。続く第4曲の合唱では、前奏でホルンが響き、あたかも舞曲のような喜び踊る雰囲気で美しくゆっくりと進み、歓喜に溢れた厳かな合唱であった。この部分は救世主が到来するという喜びに満ちた部分であり、これから続くバスのアリアと合唱ではキリストが到来するという予言が行われることになる。バスのアリアでは、木管の前奏の後にラルゲットで厳かに歌い始めた後に、急−緩−急と力強くアリアが歌われていた。また、第7曲の合唱ではソリスト達が一人ずつ歌い始めてから四重奏になり、その後に美しい混声合唱となっていた。合唱の後アルトのレチタテーヴォで「乙女の身ごもり」が告げられ、以下の第8曲から第11曲の嬰児の誕生の合唱までは、イエスの誕生と賢者の礼讃を歌う部分となる。



 第8曲のアルトのアリアと合唱では、イエスの誕生の知らせを告げる明るい軽快な前奏に始まりアルトのアリアが明るく響き、管楽器が競い合い、後半の合唱ではアリアと同じく喜びを高らかに歌っていた。しかし、続くバスのレチタテイーヴォとアリアでは、一転して暗く厳かに「暗闇を歩く者は」と歌われ、「大いなる光を見る」と結ばれて、賢者の礼讃が歌われた。第11曲の合唱では、ここでもソリスト達がソプラノとテナー、アルトとバスのペアになって嬰児が生まれたことを歌い、続いて合唱がワンダフルと祝福し、再び四重唱の後に合唱が続き、永遠の父、平和の君と讃えられ、第一部の前半を明るく終了した。

 後半は第12曲のピファ(シンフォニア・パストラーレ)で始まるが、場面は羊飼い達のいる緑の牧場の情景を現しており、オーケストラだけの器楽曲でA-B-Aの形式である。通常は弦楽合奏で演奏されるがここではフルート・オーボエ・ファゴットが加わって、弦との絶妙な合奏で牧歌的な雰囲気が醸し出され、編曲版の特徴が現れていた。 続いてアルトのレチタテイーヴォが二つ続き、天使が羊飼い達にイエスの誕生を知らせていた。そして第15番の合唱ではホルンの伴奏で「いと高きところに神の栄光あれ」と高らかに歌われていた。





 続いて第16番はソプラノのアリアであるが、ここではテノールにより「喜べシオンの娘よ」と救い主が来ることを高らかに歌っていた。続いてソプラノのレチタテイーヴォが美しく始まり、数々の奇蹟が起こったことを告げ、弦の美しい伴奏のもとでソプラノが「主のもとに来なさい」とシチリアーナのリズムに乗って優しく誘いかけるように最高のアリアを歌っていた。続けて第18番の合唱であるが、ここではソリスト達が四重唱で「主のかせは緩やかであり、荷は軽い」と歌い出し、後半は合唱団が繰り返して歌っていた。このイエスが奇蹟を行い、羊の群れの良き牧者となったところで第一部が終了し休憩となった。







 第二部では、早くもキリストの受難が始まり第19曲から第27番まで続き、死と復活、昇天と礼讃、福音の広がりが第35曲まで続いてから、第36曲の人間達の反抗に始まり最後の第39曲ハレルヤで神の圧倒的勝利となって頂点に達して第二部の終わりとなる。  第19曲の合唱はラルゴで開始され、「罪を取り除く子羊を見よ」と溜息をつくように歌われて早くも受難を導く合唱であった。続く第20番は弦と管の美しいゆっくりした前奏で始まり、アルトのアリアが「彼は侮られ」と重々しく歌われていたがクラリネットの伴奏が実に美しい。中間部に入って鞭打つような弦の付点音符の伴奏が入り、再びラルゴに美しくダ・カーポされた長いアリアであったが、受難の苦しみを良く伝えた重いアリアであった。







 続いて合唱が三曲続くが、始めに荒々しいオーケストラの後に「彼は傷つけられた」と歌われ鞭打ちの付点音符の伴奏が続けられ、続いてソプラノの合唱が先行し男声合唱が続く二重フーガで「彼の傷で私たちは癒された」と歌われていた。最後の第23番の合唱ではヘンデルらしい軽やかなリズムで「羊のように逃げ去る弟子達」が描かれ、最後のアダージョで全ての罪を負うイエスの姿が重々しく描かれていた。続く第24番から第27番までは、テノールのレチタテイーヴォ、合唱、テノールのレチタテイーヴォ、テノールのアリアと歌われていくが、モーツアルト版ではこの最初のテノールをソプラノに歌わせ、続くテノールをアルトに歌わせていた。男声と女声合唱が交錯する群衆の声を表す合唱に続く第26番のアルトのレチタテイーヴォでは、「彼に同情する者はいない」と悲痛な面持ちで悲しげにゆっくりと歌われ、27番のアリアでは「こんな悲しみはあろうか」と絶望的な表情で歌い、長い受難の物語を終えていた。



   第二部の後半に入り、 第28番のソプラノの短いレチタテイーヴォはキリストの死を暗示しているが、29番のアリアでは聖なる者は朽ち果てずに復活することを歌っており、テンポも幾分軽やかに明るく歌われていた。 第30番の合唱では「門よ、その頭をあげよ」という大合唱となり、これは十字架の死で終わることなく、栄光の王として君臨することを祝うものであり、「万軍の主」と軽快なテンポで歌われていた。
 短いアルトの「あなたは私の子」と叫ぶレチタテイーヴォの後に、第31番の合唱と第32番のアリアが続くはずであったが、この映像ではこれら2曲が省略されていた。そしてレチタテイーヴォに続いて、第33番の合唱が「主は言葉を与えられた」とユニゾンで力強く歌われていた。続いてソプラノのアリアの第34番が「なんと美しいことか」とフルートの美しい伴奏で明るく歌われ、第35番の合唱では「全ての国に広がり」とユニゾンで整然と歌われていた。これらは福音の喜びとそれを伝える使者の多いことを喜ぶ歌であり、福音の広がりが歌われて、第二部の最終部に移行し、続く4曲では愚かな人間達の反抗と神の圧倒的な勝利を歌うハレルヤへと一気に高揚していく。




 第36番では出番を待っていたトランペットとホルンの前奏によりバスが「なぜ異国の人々は怒るのか」と激しくアリアを歌い出し、フルオーケストラで伴奏が行われ、バスの存在感を見せていた。そして第37番の合唱も鋭いアクセントを持っており、激しく早いテンポで「枷を打ち砕け」と歌っていた。続くテノールのレチタテイーヴォが短く「天に住むお方は」と歌い、続く第38番のアリアでも前曲と同じ鋭いアクセントで「彼らを粉砕するだろう」と力強く導かれ、第二部の最後は「ハレルヤ」の大合唱となった。曲は短い前奏に続いて「ハレルヤ」が力強く歌われ、続く4声部がユニゾンで別の主題を歌い出して、実に荘厳な効果を挙げており、この世はキリストの国となったと、王の中の王を高らかに力強く歌い上げていた.






 第三部は最後の審判と死者の復活、信ずる者の永遠の命が歌われる。第40番ではソプラノが「私は知っている」と高らかに歌い出し、フルートや木管が明るく囀るように伴奏をして死者の中から甦ることを歌った。続く41番の合唱では重々しい死のグラーヴェと、死からの復活を叫ぶ元気の良いアレグロとが交替で歌われて、キリストの復活を告げていた。第42番のバスのレチタテイーヴォでは最後の審判のラッパが告げられ、トランペットとホルンの伴奏で「死者は蘇って不朽の者となる」と元気よく堂々と歌われていた。




 短いアルトのレチタテイーヴォの後に、アルトとテノールの珍しい二重唱が始まり、「死よ、お前の棘はどこにあるか」と死に対する勝利を歌い出していた。続いて45番の合唱が始まり、二重唱と同じ歌であるが、4声の合唱が「神よ、あなたに感謝する」と勝利への感謝を歌い出し、最後の大合唱への前段となっていた。そしてソプラノが「神が私たちの味方であるなら」とレチタテイーヴォを歌い、美しい弦楽器の伴奏でアリアを明るく歌って第47番の大合唱へのお膳立てをしていた。

 最後のフィナーレとなる大合唱は、ラルゴで「ふさわしいのは子羊」と歌ってから、男声と女声の力強いフーガとなって次第に高揚し、オーケストラもこれに加わって、「とこしえに」と歌われてから、最後は厳かな「アーメン・コーラス」の壮大なフーガとなって、圧倒的な盛り上がりを見せて全曲を締めくくっていた。大変な熱演でありライブコンサートなら壮大な拍手で盛り上がるところであろうが、教会内ではあるが映像を撮るための観衆不在の演奏であったので、画面はこれで終了となっていた。







 これまでこの「メサイア」をまるでオペラを見るように1曲づつ丁寧に見聞きしたことはなかった。しかし、三澤先生の新しい全訳のテキストが手元にあったので、今回は記録を残すためにストリーを考えながら、そしてモーツアルトの編曲に注意しながら逐一聴いてきた。その結果、モーツアルトの編曲では、スコアで確認したわけではないが、予想されたものの他、合唱の一部を合唱に先立ってソリストの二重唱や四重唱に変更したり、本来のテキストがテノールであるのにこれをアルトやソプラノに変更したり、第二部の福音を歌う第31番の合唱と第32番のアリアを省略したりと、細かく見ればかなりの編曲の手が加えられていた。しかし、これらは新しい三澤先生のテキストと比較した聴感上のものであるので、変更の意図がどこにあるのか分からないが、歌うソリストたちが決まっていたことが理由の一つになりそうであると思われた。

      私はリリングの宗教曲のCDが多い。バッハのロ短調ミサ曲もマタイ受難曲もそうであるが、今回と同じシュトウットガルトのメンバーであり、購入の動機はこれらのソニー盤がこれらの曲の待望の初CD盤であったことによる。リリングの迫力あるCDの響きを聴いて、リリングは緩急・強弱を明確にする力強い指揮をする人だと考えてきたが、今回の「メサイア」の指揮振りを見ていて、わが意を得たりという感じがした。この「メサイア」編曲が、モーツアルトのその後のレクイエムなどの作曲に役立ったかどうかは、モーツアルトに聞かなければ分からないが、後世に残された有力な編曲と考えられているので、彼の多彩な作曲能力が生かされたものとして評価したいと思う。

(以上)(09/05/02)


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