(特別番組;ドキュメンタリー・テレビ映画などの特集)
8-12-4、ドキュメンタリー「ザルツブルグ音楽祭」−その短い歴史−、監督トニー・パーマー、制作2006年、クラシカジャパン、08年9月特集、(その1、第1部及び第2部)

−第一次大戦後の1920年にラインハルトやR.シュトラウスなどの文化人により音楽祭が始まって以来、第二次大戦後の復興期までを第一部として、音楽祭の歴史をたどり、第二部ではカラヤンの時代として彼が活躍したおよそ30年間を取り上げ、華やかな音楽祭に成長した姿を、著名なゲストたちの証言により明らかにするものである−

(特別番組;ドキュメンタリー・テレビ映画などの特集)
8-12-4、ドキュメンタリー「ザルツブルグ音楽祭」−その短い歴史−、監督トニー・パーマー、制作2006年、クラシカジャパン、08年9月特集、(その1、第1部及び第2部、第3部はその2として1月号に掲載予定)
(クラシカジャパンの08年09月23日の放送をBRデイスク(BR-06-1)に録画。)

 12月号の第四曲目は、要望の多いドキュメンタリー・テレビ映画などのモーツアルトソフトを考えていたが、その1回目は年末年始用の特別番組としてお届けしたい。それは、2006年に制作された最新のドキュメンタリー「ザルツブルグ音楽祭」−その短い歴史−である。監督はトニー・パーマーであり、クラシカジャパンから08年9月に07年ザルツブルグ音楽祭特集として放送された最新ソフトである。
 このドキュメンタリーは、ザルツブルグ音楽祭に関係する残されたフィルムや映像を広く回顧し、多くの関係した人々に生き生きと語らせながら、巧みに全体を編集して歴史を綴るよう仕組まれた特集である。構成は第1部が音楽祭の始まりから第2次大戦後の復興期まで、第2部がそれ以降のカラヤンの時代まで、第3部がカラヤンが亡くなってから生誕250年祭の06年まで、それぞれが約1時間の合計3時間という大部のものであった。  驚かされたのは第一部では、R.シュトラウスがオペラ「薔薇の騎士」を指揮している姿が映ったり、1920年にM.ラインハルトが大聖堂の前で演出した「イエダーマン」の一部が映像に含まれていたりする。第二部では、カラヤンを中心に彼を支えた指揮者・演出家・ソリストたちが顔を出し、元気な姿を見せてカラヤンを語っていた。第三部では、カラヤンの死後、救世主的に登場したモルテイエによる多様なオペラとモダンな演出の登場や大衆化の流れを描いており、これに反旗を翻す有名人の数々が登場し、論議が高まりながら全体としては成功を収めていく音楽祭の様子が写されていた。
 非常に興味深い音楽祭ドキュメンタリーなので、当初は読み物風に概要をこの12月号に一度に報告したいと考えていた。しかし、内容が豊富で特に第三部が議論の多いところなので、今回は一部と二部とを12月号に掲載する。そして異論の多い第三部を発言者の口述記録を正確に聞き取り、時間をかけて09年1月号に、多少詳しく報告する予定である。



 第一部は、ゲーマッハー総裁などの音楽祭の歴史の話の他、「イエダーマン」という演劇の成立と音楽祭との係わり、そして第一次・第二次大戦の二つの惨劇と音楽祭の係わりが主たる内容であったが、歴史家のミハエル・シュタインベルグ教授が随処で顔を出し、全体の流れが合うように上手く解説していた。
 冒頭に空撮の美しいアルプスの姿が映し出され、次第にザルツブルグの山並みや街を空からフォーカスして、ドミンゴがいきなりザルツブルグ音楽祭について語り出す。多くの優れた人達が世界中から参加して夢の競演が行われる音楽祭であるが、オペラを初めて見る人も沢山参加するお祭りでもあると語っていた。演出家ピーター・セラーズが、この音楽祭は支援が多いので芸術家は一度足を踏み入れたら、つまみ出されるまで好きなことが出来ると熱弁を奮っていた。そして歴史家シュタインベルグが、ここはモーツアルトが大司教や父親の権威を嫌って飛び出した街であり、今でもその激しい雰囲気や土壌があると、それを描くリトル・アマデウスの漫画の元気の良いアニメ映像をバックに語っていた。




 アン・マレーとネトレプコが初めてザルツブルグに来た時の話を興奮気味に目を輝かせて話す。アン・マレーは、カラヤンのドレス・レハーサルで超有名スターの登場にただただ圧倒された話をした。「椿姫」で初デビューしたネトレプコは、初めは私は花の乙女たちの一人で、一緒に沢山の演奏会を見て学び、歩き回った。山や景色も美しい所ばかりで感銘を深めた素敵な2週間だったとザルツの印象を語っていた。ゲルギエフのエネルギーに溢れた凄い指揮振り、ドミンゴの「仮面舞踏会」の熱演、内田光子のニ短調協奏曲K.466の激しい表情の弾き振り(2-2-1)などの音楽祭の花を飾る映像が出てから、交響詩「ツアラトウストラ」の威厳溢れる冒頭部分を指揮するカラヤンの姿の映像が出て、これがこのドキュメンタリーのカラヤンを象徴する映像であろうと勝手に想像した。



 シュタインベルグ教授は語る。ザルツブルグは、長い間、ハプスブルグ家でもバイエルンでもない大司教と教会の管理下にあった独立州で、大司教がカトリックの街造りを行っていた。そして人口も信仰も権威もカトリックが占めており、17世紀にはユダヤ系の人はおらず、18世紀にはプロテスタントを追放していた。モーツアルト財団のゲーマッハー総裁は語る。ここで音楽祭をやる話は19世紀に出てきて、財団は祝祭劇場で毎年ではないが音楽祭を計画していた。その第1回が1856年に生誕100年を記念して開かれた音楽祭であったという。当時、ザルツブルグの人口は1万5千人であり、シューベルトが訪れたが、この街でモーツアルトが生まれ、奥さんが住んでいたことを知らなかったという。1914年8月モーツアルテウム設立の予定が第一次大戦が始まって頓挫したが、私の祖父はモーツアルトの音楽祭の準備が整ったと判断し、戦時中にも拘わらず「ザルツブルグ祝祭劇場協会」を設立したと語っていた。




 1914年から18年の第一次大戦により、オーストリア・ハンガリー両国とも君主制が崩壊し、ドイツを含めて戦後は全く新しい体制になったとオーストリア連邦のハインツ・フィッシャー大統領が語った。当時は全く悲惨な状態で、戦後は新しい国は全く信用されず、荒廃の中で唯一文化事業だけが期待され、モーツアルト財団に社会への信頼回復が求められたとザルツ州知事ガービ・ブルクシュターラー女史が語っていた。将来の夢をもたらす事業として音楽祭が一番だと期待されるようになり、演出家のラインハルトやR.シュトラウスなどが州知事と相談し、ザルツブルグは立地条件に恵まれているので、天才モーツアルトに救いを求めた大掛かりな音楽祭や演劇活動の中心地にしようと立ち上がった。


 


   当初はドイツの劇場でギリシャ劇を復活させようと構想を持ったラインハルトが、英国の道徳劇「エブリマン」を翻案して、1920年の音楽祭で初めて「イエダーマン(人間)」として大聖堂の前でお祭りのような演劇が行われた。これはカトリックの伝統を音楽祭と調和させようという狙いを持った実験的な試みであったという。画面ではこの時代の「イエダーマン」の古い記録が紹介されており、怠惰な人間を罰する神の力の巨大さを示すこの劇作品が、巨大な大聖堂の前で観客を圧倒してしまう様子が描かれていた。
 「イエダーマン」は、ユダヤ人のラインハルトやホフマンスタールがカトリックの大司教の庇護を受け、プロテスタントの道徳劇を手がけたものであるが、結果的にこれがユダヤ人の批評家から攻撃されたり、第二次大戦中にはザルツブルグはヒトラーに占拠されて、皮肉にも反ユダヤ主義の砦になったりしたが、音楽祭は絶えず時代の波に揺れ動かされながら続いてきた。






 1933年にヒトラー政権が誕生し、これを嫌ってバイロイトからトスカニーニがザルツブルグの音楽祭を指揮するようになり多彩化した。ここでR.シュトラウスが自ら「ばらの騎士」を指揮をしている様子が舞台とともに写された。意外にテンポが遅く、高齢にも拘わらず、しっかりした指揮振りであった。しかしこの盛況も長続きせず、1938年にオーストリアとドイツとの併合がなされ軍事色が強まってきた。ナチスの進出と音楽祭への係わりがあり、映像ではゲッペルス宣伝相が登場したり、幹部が音楽祭を指揮するフルトヴェングラーと握手する場面が写されていた。夫人のエリザベスは、握手はしたが後で必ずハンケチで手を拭いたと証言していた。
 第二次大戦後、連合軍の空爆が始まり、ザルツブルグもその対象になったが、程なく終戦を迎えた。この地には米軍のキャンプが置かれ、やがて結果的に占領軍のヨーロッパの拠点となった。街は崩壊し、難民だらけの悲惨な状態であったが、占領軍も敗戦国の戦後処理の教育プログラムの一環として協力してくれ、「イエダーマン」が古き時代の良き夢を甦らせてくれた。これが今日のザルツブルグ音楽祭で同じようにこの道徳劇が今でも続けられている理由である。戦後はフルトヴェングラーが演奏禁止をくらい、クラウス・ベーム・カラヤンも、一時演奏を差し止められたが、終戦処理が終わり、戦後復興が始まると活躍を再開し始めた。




 9歳のバレンボイムがブエノスアイレスから初めてザルツブルグに来た日のことを生き生きと話していた。一回目はモーツアルトの生家を訪ねたが、2回目は1954年であり、あのフルトヴェングラーの「ドン・ジョバンニ」を観たという。彼はその時の感動から指揮の道に関心を持ったと語った。そこで 1954年のザルツブルグ音楽祭の「ドン・ジョバンニ」(5-9-1)が写されて、フルトヴェングラーが復活して活躍している映像が示された。シュワルツコップは彼の指揮する第九を歌った感想を「彼は第九をただ指揮したのではなく、自ら演奏をしていた」と語っていた。続いて、ベーム指揮の「魔笛」や「フィガロ」の映像が映されており、F.デイスカウはベームの演奏に対する厳しさを語っていた。二人の巨匠の活躍などにより、戦後の復興と音楽祭の再建がなされた様子が示されて、第一部の終了となっていた。ショルテイが「魔笛」を指揮して、パパゲーノのアリアのチェレスタを弾き、歌い終わったパパゲーノとしっかり握手する微笑ましい場面(2-1-2) で終わりとなった。



 上記の報告では触れられなかったが、この映像にはR.シュトラウスの曾孫のマデライネが出て曽祖父の思い出を語ったり、ベームの息子の俳優のカールハインツ・ベームが父の大戦中の苦しい姿を語っていた。また、「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ家の次女のマリアが戦時中の悲惨なことを語っていたなど、印象に残る映像が多い第一部であったことを付記したい。
 

 終わりにこの第一部では、モーツアルトが亡くなってからのザルツブルグの歴史を語るような番組となっており、特に第一次大戦前後から第二次大戦前後の映像は、まるでオーストリアの文化史のような姿であった。しかし、事情に疎い私たちには、現地に行って見たり聞いたりして勉強しなければ分からないような、ハプスブルグ家を取り巻く周辺諸国や民族と文化の複雑な軋轢を知らなければ、理解できないことが多く含まれていた。その一つは音楽の歴史についてはユダヤ人音楽家を除いて語れないと言う喩えの通り、ザルツブルグ音楽祭についても反ユダヤ主義による受難と栄光の流れが支配しているように思えた。また、私は言葉の関係でこれまで「イエーダーマン」という演劇を大聖堂の前でライブで見ることを敬遠してきたので、何故この演劇がこの音楽祭の中心に置かれているかということを不幸にして知らなかったが、今回のこの映像でこの道徳劇が、国を超え、民族を超え、宗教を超えた人間へ道義的教えの精神があることに気付かされた。

  (以上)(08/12/23)(追記09/01/30)




ドキュメンタリー「ザルツブルグ音楽祭」−その短い歴史−、第二部

−ヘルベルト・フォン・カラヤンの時代−


 第二部は1954年のフルトヴェングラーの死からおよそ30年間、ザルツブルグ音楽祭を引っ張ったのはヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜89)であったとして、カラヤンが指揮する交響詩「ツアラ」の冒頭のあの威厳のある音楽を伴奏に、スポーツカーを乗り回すカラヤンの姿で第二部が始まっていた。


 いきなりムーテイが笑いながら登場し、朝7時にカラヤンからの長距離電話で叩き起こされた話で始まり、まさしくあのカラヤンからだと分かった途端に、いきなり「コシ・ファントッテ」を振らぬかと言われ、しかもイェスかノーかで直ぐ返事せよという有無を言わさぬ内容に驚いたという。彼は新しい才能の発掘に熱心であった人で、恐らく50歳から70歳くらいの多くの音楽家は、カラヤンの世話になった人が多い筈だという。(ムーテイの「コシ」の映像は3組(4-11-1)もあり、これがきっかけで「コシ」を振るようになった。)続いて小沢征爾やメータやポリーニたちが、音楽祭を通じてのカラヤンとの触れ合いについて語り、特にポリーニはカラヤンと協演させていただいたが、彼はソリストの音楽性を尊重してくれて、邪魔をしないでついてきてくれた指揮者だったという。また、アン・マレイやヤンソンスも生き生きとしてカラヤンとの出会いを語ってくれ、ヤンソンスは彼は鳥や飛行機のように絶えず高いところから全体を見渡しているような人であったという。


 ザルツブルグ音楽祭総裁のヘルガ・シュタットラー女史は、カラヤンはいつもザルツブルグで一日中オペラを鳴り響かせたいと語っていたとし、ヴェルデイやワグナーをやるためには大きなホールがなければ駄目だと口癖のように言っていた。そして州政府に働きかけて祝祭大劇場を建設させた。こけら落としは1960年でカラヤンの指揮であった。また、元州知事のシャウスベルガーは語った。当時は住民たちがホールよりも住宅を望んでいたが、州知事は政治的に動いて劇場建設にこぎ着け、票を減らしてしまった。しかし、住宅も直ぐに満たされたし、今思うとあの時の知事の英断がなければ、今のような華やかなザルツブルグはなかっただろうという。


 祝祭劇場では華やかな飾りを付け豪華なドレスを身につけた人々が世界中から集まるようになり、カラヤンのお陰でザルツブルグは賑わい出し、音楽祭が定着していった。メゾのユリナッチが当時の思い出を語り、画面ではカラヤンの「ばらの騎士」の第三幕の美しい三重唱(シュワルツコップ、ユリナッチ、ローテンベルガー)の場面(1960)が写されていた。また、演出家のミヒャエル・ハンペ(1985〜1989年音楽祭担当)が、この当時はザルツでは不可能がないと言われるほど、照明や小道具に至るまで磨きをかけていたと語っていた。メゾのクリスタ・ルードヴィヒは、カラヤンが「テンポはいつも変わるものだ」と教えられた話があり、「コシ・ファントッテ」のヤノヴィッツとの二重唱の場面(若い二人が演技)が写されていた。


   元州知事はさらに語る。「ザルツが今日あるのはカラヤンのお陰です。モーツアルト週間に始まり、イースター音楽祭に聖霊降臨祭や夏の音楽祭、今やジャズ音楽祭や降臨節のお祝いもある。1年を通じて多くの音楽好きや観光客が集まります。」サイモン・ラトルがイースター祭について付け加えた。「ドイツのオーケストラをオーストリアの自分の故郷に連れてきて、自ら指揮をするなんてカラヤンにしか出来ません。その背景には文化都市を世界に売り出そうとしたベルリンの姿もありました。」

 J.レヴァインの指揮した「魔笛」が写し出され彼は語った。音楽祭には毎年のように携わり、一流の仲間が一室で会することに特別の意義があったという。彼は演出家ポネルとのコラボで新しい演目が沢山あり、この経験は僕自身の糧となり、多くを学び与えてきたと言う。特にポネルとは「魔笛」を9年間に51回振っており、信頼する歌手と共演するのが実に楽しく、パパゲーノのバーシとは50回も一緒だった。ザルツ音楽祭は他では味わえぬ特別な時間だといつも感じていたと言う。





 レヴァインはポネルについて「彼はまさに奇跡的な人物です。単なる監督や演出家ではなく、あらゆることについて知識が豊富で視野が広い人だ。彼とはモーツアルトの作品を一緒に手掛けて来たし、特にシェーンベルグの「モーゼとアロン」の初上演の記憶がまだ鮮明であり、ユダヤの人がどんな目にあったかを思い出させる。」と語っていた。
 ブレンデルとF.デイスカウとが音楽祭の思い出を語っていた。二人はこの音楽祭の常連であり、「冬の旅」を何度も演奏したが、二人ともいつもスコアの新しい解釈を勉強していた。デイスカウは、ブレンデルを伴奏者でなくパートナーとして扱ってくれ、二人で新しさを求め合い、共演を重ね、互いに支え合ったと言う。(そう言えば、冬の旅を何回も録音し、ベートーヴェンのソナタ全集を何回も録音したのはこの二人である。)








      フレー二は初めてリハーサルでザルツブルグに行った時のことを楽しげに語っていた。舞台にはギャウロフ、ドミンゴ、カレーラスなどの偉大な歌手陣がおり、私なんか小さな小鳥みたいと思い、マエストロに歌えませんと言い、何とか午前中のリハーサルを終えた。昼食後、カラヤンは皆の前で「今朝、彼女は僕を怖がらせてくれた。歌いたくないと言い出してね。」と語り勇気づけてくれた。これは「ドン・カルロ」の話であり、その映像が画面では写されていた。カラヤンの「カルメン」主役を演じたメゾのバンブリーは、一緒に働くのが難しい人でした。彼は自分の意見を強く持っている人だったからですと言う。彼は演出家のように自ら演じて指導してくれ、何にでも口を出して、マエストロがまるで演出の仕事まで乗っ取ってしまったようだったと語っていた。



 終わりにカラヤンの私生活の面が触れられていた。監督のG.フリーデルやプロデユーサーのP.アルワードなど、身近に仕事をした人達が「彼は仕事中は冷たい人だと思わせていた。誤解されやすい人だった。孤独だったからです。しかし、私生活では子供を可愛がり、仮面の下には優しくて人間らしい顔があった。」という。「指揮者とは孤独なものであり、彼のようにあらゆる名声を得ると、気を許せる相手がいなくなる」とも言われた。また、「彼は自分の影響力の大きさを自覚していた。彼の周囲には彼の力を利用しようとするものが多かったので、警戒し孤独にならざるを得なかった。しかし、一度気を許すと、情が深くなり、周囲の困った人を良く助けていた。」と語っていた。



 奥さんのエリエッテ夫人は、あんなに内気な人は滅多にいないという。冷たい人と言われるが硬い表情で自分を守っていたとも言う。また、カラヤンの娘イザベラは、「私には父が気難しい人だと言われても、その理由が理解できない」と語っていた。そして「あんな単純な人はいない。ネクタイ嫌いで、シンプルなセーターばかり好んでいたし、大勢の集まりは嫌いで、冗談が大好きな笑い上戸でした」と語り、口癖は「職業は何であれ、肝心なのは、常に全力を尽くすことだ」と言っていたのが印象的であった。



 カラヤンと協演を重ねたムッターは、最後に登場し、カラヤンは常に完璧を目指して歩き続けた人だ。また彼ほどの集中力を持った人はいない。他の指揮者ではカデンツアで休みを取りソリストは気が抜けてしまうが、カラヤンはリハーサルでも集中しており、本番ではそれを楽しんでいたという。映像ではムッターのヴァイオリンで「四季」が演奏され、無心にチェンバロを弾く優しい顔の白髪のカラヤンの姿が写されていた。冷たい仮面の下に優しいものがあったと多くの人が語っていたカラヤンの姿に見えた。  多少の抜けはあったが、以上がおよそ30年間のあいだ音楽祭を支え続けた天才カラヤンの実像であり、ドキュメンタリーの第二部がショルテイの「魔笛」で終了した。

 終わりに、第二部においては、カラヤンの時代としてこの音楽祭が世界中の人が集まるオペラを中心とした豪華な祭典に発展し、彼の活躍のお陰で、この音楽祭以外にもザルツブルグには、シーズンを通して多様な音楽祭や文化活動が行われるようになったことが描かれていた。私はカラヤンと同じ技術者として、彼が若い頃からLPやステレオなどのオーデイオの音響面で関心を示してCD音楽の世界を極め、次は映像音楽の時代になると技術的な関心を持ったばかりでなく、演出や小道具や照明に至るまで関心を示して実践し、その半ばで倒れてしまったという指揮者以外の側面を知り、新たな感銘を受けた。

(以上)(08/12/26)(追補09/01/30)



目次5にもどる 目次4にもどる
目次3にもどる 目次2にもどる
目次1にもどる 私の新ホームページへ




名称未設定