7-1-2、生誕250周年記念ドキュメンタリー「ウイーンのモーツアルト(Mozart in Vinna)」2006年、Euro Arts、

−ウイーンの社会史をベースにウイーンにおけるモーツアルトの生涯を短く辿ったドキュメンタリ−・社会史が身近でないわれわれ外国人にはやはり新鮮に映る−

7-1-2、生誕250周年記念ドキュメンタリー「ウイーンのモーツアルト(Mozart in Vinna)」2006年、Euro Arts、
(06年11月05日、クラシカジャパンの生誕250周年記念ドキュメンタリー放送を、D-VHSレコーダのLS3モードにより、S-VHSテープにデジタル録画。)


 この映像は、前回にご紹介した「ザルツブルグのモーツアルト(6-11-2)」とペアーになったEuro Artsが制作したドキュメンタリーである。歌劇「後宮」序曲のメロデイにのって、ピーター・セラー、キルヒシュラーガー、ロバート・レヴィン、バレンボイムなどの常連の他に、ウイーン大学のグルーバー教授、ダ・ポンテ研究所のヘルベルト・ラヒマイヤー所長、「Mozart in Vinna」の著者ブラウンベーレンス、指揮者・音楽学者のペーター・ギュルケなどが、ウイーンのモーツアルトについて語り出す。
 1981年3月16日から、モーツアルトは父親の反対に耳を貸さず、ザルツブルグを離れてウイーンで生活を始めた。「ウイーンは僕の仕事に世界で一番合う街です」と言い、自分の才能に自信を持っていた。この時代のウイーンは、「民衆の王」を目指すヨーゼフ2世がマリア・テレジアの逝去(1980)にともなって単独で支配する時代になっていた。ウイーンでは、ヨーゼフ2世の啓蒙思想に基づく世直し改革がいろいろと試みられ、自由な雰囲気のもとに新しいものには魅力的な街になっていた。モーツアルトは得意のピアノを武器にして作曲を行う傍ら、富裕な貴族たちのピアノの家庭教師をしたり、ピアノの演奏会を開いたりしてウイーンの音楽界に馴染んでいく。



 音楽の世界では、ウイーンはグルック、ハイドン、サリエリなどが活躍する洗練された国際都市であった。ヨーゼフ2世は、上からの改革として農奴解放をはじめ宗教改革に着手しフリーメーソンを認めるなど開かれた社会を目指して政治社会の変革に努めた。芸術やオペラの分野でも、イタリア歌劇よりもドイツ語歌劇を奨励するなど新人のモーツアルトには追い風が吹き、折からのトルコ・ブームにものって最初のオペラ「後宮からの逃走」K.384がクリーンヒットした。モーツアルトは、このオペラの主人公のコンスタンツエと自分の恋人コンスタンツエとが重なったのか、父親の反対を押し切って、1782年8月4日に聖シュテファン教会で結婚式を挙げる。



 モーツアルトはピアノ協奏曲の新曲を発表する場として自分で企画し、構成し、演奏をし、マネジメントする彼の予約演奏会であるアカデミーの設立を試み、ウイーンの富裕層の支持を集めることに成功した。アカデミーは4〜5時間で新作と会話や飲食を楽しめ、社交場でもあり、時には皇帝も見えることがあった。会場はホーフブルグの王宮、教会、貴族の館などであった。収入は莫大であり、人脈が築かれ、協奏曲が連作された。この成功は、フリーな芸術家としての自立を意味していた。

 その成功の証しは「フィガロハウス」への移転であり、ここで多くの傑作が誕生した。ここではパーテイが出来るほどの広さがあり、来客も多く、1785年のアカデミーの絶頂の時期に父のレオポルドが滞在しており、多忙な派手な生活ぶりが紹介されている。その時期にダ・ポンテとの付き合いが始まり、オペラ「フィガロの結婚」を作曲し、皇帝を説得して、1786年に上演に成功する。アンコール禁止令が出るほど曲は受けていたが、ウイーンの音楽界の実力者たちや貴族社会の人々からは、庶民のモラルが貴族の権力に勝つという、上流社会を嘲笑するものと冷ややかに受け取られていた。




 「フィガロの結婚」はプラハでは大成功し、モーツアルトは招待を受けてプラハへ行き、次期のシーズンのオペラの作曲を依頼された。プラハでの成功は、市民全体からの支持であったが、プラハを支配するウイーンの貴族階層に対する反発をも意味していた。
 ウイーンに帰ったモーツアルトはダ・ポンテと相談し、オペラ「ドン・ジョバンニ」を作曲し、1787年秋にプラハでの上演に成功する。しかし、モーツアルトが期待した肝心のウイーンでの上演は失敗であった。それには変わらぬ貴族批判や自由万歳などの体制批判があると上流階級には受け取られ、音楽が重く、歌詞が無味乾燥で、愛のないオペラとされて、一般の庶民にも受け入れられなかった。




 モーツアルトは、グルックの死により宮廷作曲家の称号を受けたが、1788年のトルコ ヘの参戦により、ウイーンの物価は高騰し、ウイーンの音楽界の新曲の需要が減少していた。アカデミーは開けず、三大交響曲は演奏されたかどうかはっきりせず、プフベルグヘの借金の依頼が始まった。モーツアルトは演奏会を止め、教師を辞め、作曲に集中するようになった。ダ・ポンテと組んだ3度目のオペラ「コシ・ファン・トッテ」が1790年に上演されたが、女性客が喜ばぬ作品であり、上演中にヨーゼフ2世が亡くなったため、上演が禁止されてしまった。イタリア人のダ・ポンテとの3部作は、オペラの新天地を開拓するものであったが、内容的にはウイーンに対する反動であると考えられた。




 ヨーゼフ2世の後任のレオポルド2世は、音楽や芸術に関心が薄くイタリア趣味の皇帝であった。ボヘミア王としてのの戴冠のため、新作の「魔笛」の作曲や「レクイエム」の作曲中のモーツアルトは、ボヘミアからオペラの作曲を依頼され、体調を悪くするほどの超多忙の中で完成させたが、プラハへの馬車の中でも作曲をしていたという。戴冠オペラ「テイト帝の慈悲」は古いタイプのオペラであり、時間がなくて苦労した割りには不評に終わっている。ウイーンに戻り完成させた新作のオペラ「魔笛」は成功し、上演のたびに評判が高まってきた。モーツアルトはバーデンに滞在中のコンスタンツエに「何よりも嬉しいのは、聴衆の無言の賞賛だ。」と書いている。しかし、91年11月17日のフリーメースン・カンタータを初演した後、20日頃より病床につくようになり、12月5日に死去した。床の中でもレクイエムを作曲していたという。翌日、聖シュテファン大聖堂で最後の祝福を受け、聖マルクス墓地に埋葬された。

 終わりに、埋葬の日のウイーンの新聞を取り上げ、次のような追悼文が報道されたことを紹介している。「卓越した音楽的才能により、幼少時から欧州中に知られ、その希有な天与の才を最も幸運な形で開花させた。才能を発揮し続けて巨匠の仲間入りを果たした。彼の作品は万人に愛され、賞賛された。彼の死は、音楽という芸術に埋めることの出来ない損失を与えた。」と讃えている。



 このドキュメンタリーは、徹底して有名な音楽家やウイーンの学者先生方に語らせており、ストーリーの裏付けを行っていた。ウイーンのモーツアルトの惨めさには余り触れず、埋葬の仕方なども、皇帝の改革の結果で中産階級の標準だと先生に言わせており、ウイーンを悪者にしないような配慮が多少あるかも知れない。最も成功したオペラは「魔笛」だとし、平民も、貴族も、知識人も楽しみに訪れており、彼の死後にヨーゼフ2世のドイツ語オペラの理想を実現した最初のものであると気づいて欲しいと言っている。その反面、ダ・ポンテ3部作は、音楽は良いが歌詞の中味がウイーンへの反動だと、イタリア人のダ・ポンテのせいにしている面もある。ドイツ語圏の作品であるとこのようになるのであろう。
 しかし、前回の「ザルツブルグ」でも同様であったが、全体的に取り上げている事実関係は、史実に忠実であり、何よりも伴奏として取り上げている音楽が全て映像を伴った名演奏を用いているのが有り難かった。ウイーンの社会史をベースにしたドキュメンタリーは、われわれ外国人の目にはやはり新鮮に映る。
 なお、以前にイギリスで制作された「モーツアルトを探して(In Search of MOZART) 」というドキュメンタリーのDVDをご紹介しているが、こちらは英語圏のモーツアルトであり、今回のこの作品は、ドイツ語圏のモーツアルトとでも言うべきか。ウイーンの社会史の取り上げ方とモーツアルトのオペラやダ・ポンテに対する評価が微妙に違っていると思われる。これらは多分に感覚的なものがあると思われるので、関心のある方は、是非、これらの映像を直接、ご覧いただきたいと思う。

(以上)(07/01/08)



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