6-12-2、生誕250周年記念ドキュメンタリー「さようならモーツアルト(Adieu Mozart)」「Mozart in Prague Part1」2005年BVA/The Municipal House、

−プラハはモーツアルトを認め、大歓迎してもっとここで活躍して欲しかったが、モーツアルトはウイーンでの成功に賭けていた−

6-12-2、生誕250周年記念ドキュメンタリー「さようならモーツアルト(Adieu Mozart)」「Mozart in Prague Part1」2005年BVA/The Municipal House、
(Written by Zdenek Mahler, Produced by Jiri Hubac, Directed by Martin Suchaneck)
(市販DVD-Video、DENON COBO-4579) 


 この最新のドキュメンタリーは、「モーツアルト・イン・プラーグ」と題されたプラハ発のDVDの第一部となるものであり、第二部「ガラ・コンサート」は、既に「プラハ・コンサート(6-10-1)」として、ご報告済みである。このドキュメンタリーは、モーツアルトが生涯にわたり3度も滞在したプラハの街を、友人である美貌の歌手ヨゼフィーナ・ドウシェク夫人が綴る思い出のかたちを借りて、モーツアルトのプラハでの足跡をたどるものである。全体は「1、プラハからの招待、2、再びプラハへ、3、さようならプラハ」の三部構成で出来ていたが、映像は続けて進められる。

 はじめにプラハからの招待を受けて訪問し、「フィガロ」を指揮したり、プラハ交響曲を初演したりして評判を重ね、次シーズンの新作オペラの契約をした話がある。次には、新作のオペラが未完のまま、プラハ入りしたモーツアルトが、ベルトラムカ荘で「ドン・ジョバンニ」を完成させて初演に成功し、ヨゼフィーナに約束したアリア「美しい人よ、さようなら」を作曲した話が続く。最後に、新作オペラ「テイトの慈悲」が評判とならず失意のうちにプラハを去りウイーンに戻るが、間もなくして亡くなったと言う知らせ。プラハで行われた追悼のミサには、4000人の市民が参加して天才の死を悼んだという話からなっており、「プラハは私を認めた」というモーツアルトのプラハへの思いを綴るような、美しい映像と音楽が溢れる短編となっていた。



 画像では冒頭にK.467の第二楽章の美しいメロデイにのって、プラハのベルトラムカ荘の冬の夜の姿が映し出され、ローソクの灯るピアノの前で一人の夫人が涙を流していた。ヨゼフィーナである。「ザルツブルグでモーツアルトが21歳の時に初めて会いアリアを贈ってくれた。そして生涯を通じて心からの友であった。」と涙しながら彼女の回想が始まる。「さようならモーツアルト!」の始まりである。



 一転して場面は冬の雪道を駆ける馬車となり、モーツアルトはプラハに到着する。ここではフィガロが大成功であり、人々は口笛でメロデイを吹いている。旧市庁舎の大時計の前や旧市街広場の賑わいは、まさにフィガロで沸き返っているようであった。華やかなドレス姿のヨゼフィーネが現れ、美しいメヌエットの伴奏によって、トウン伯爵邸での歓迎舞踏会の様子を思い出す。その様子は彼の友人宛の手紙に「まるでフィガロ一色だ」と書かせている。次いでノステイッツ劇場でのオペラでは、フィガロの第3番のアリアや「もう飛ぶまいぞ!」のアリアが歌われて、プラハではモーツアルトの反抗の精神もお気に入りだったと語られる。また、プラハ交響曲が演奏され、ロココとは違う力強さで驚かせ、彼の弾くフィガロの即興演奏に拍手が止まらなかった。さらに彼はフリーメソンのプラハ支部でも歓迎を受け、次シーズンのオペラの作曲を依頼された。 



 ウイーンに戻ったモーツアルトはダ・ポンテと会い、次の作品はスペインのドラマ「ドン・ジョバンニ」と決めた。しかし、そのころ父の病気の知らせがあり、続いて父や親友などの死が続き、筆ははかばかしく進まなかった。プラハでのシーズンが近づき、モーツアルトは、オペラを仕上げるためにプラハに向かった。ダ・ポンテの到着が遅れ、オペラの完成はさらに遅れたという。モーツアルトは宮殿のそばの三金獅子館に宿泊し、オペラの完成を急ぎ、そこでプラハの人達のために「自由万歳!」を付け加えたという。  ヨゼフィーネは完成しないオペラを見かねて、モーツアルトに別荘のベルトラムカ荘を提供し、モーツアルトは気に入って何とか完成へと漕ぎ着ける。しかし、序曲は何と初演日の朝にやっと写譜屋の手に渡ったされ、夜通しコンスタンツエに話しをさせて聞きながら作曲を仕上げたという。



 初演は練習不足などいろいろあったものの、人間の欲望・反抗精神・自由万歳を主題にしたオペラは成功し、モーツアルトは自分の代表作として回を重ねる毎に自信を深めていった。数ヶ月プラハに留まって、次のオペラをと頼まれたり、ハイドンからも留まれと手紙で頼まれたようであるが、モーツアルトは、やはりこのオペラをウイーンで成功させて、宮廷作曲家への道を進みたいと考え、プラハを去ることにした。  モーツアルトはヨゼフィーネに対するお礼にアリアを書く約束をしていたが、なかなか作曲しないので、彼女はウイーンに発つ前日に彼を一室に閉じこめてしまう。モーツアルトは「初見で正しく歌えなければ渡さない」と条件を付け、レチタテイーボとアリア「愛しい人よ、さようなら、K.528」を完成させたが、ヨゼフィーナは、そのことを懐かしく思い出しながらアリアを歌っていた。



 しかし、「ドン・ジョバンニ」はモーツアルトの期待に反してウイーンでは失敗し、ウイーンの聴衆の関心から遠ざかるようになってしまった。折から戦争が勃発したり、フランス革命が始まって王室はもとより貴族社会をも大打撃を受けることになった。作曲への注文が少なくなり、プフベルクへの借金の申し込みが増えてきた。「コシ・ファントッテ」に期待したが、ヨーゼフ二世も亡くなり、取り巻く環境が最悪の状態になっていった。

 しかし、最晩年の多忙な時期に、レオポルド二世のボヘミア王戴冠式祝典用のオペラ「皇帝テイトの慈悲」の作曲をプラハから依頼され、1791年9月、モーツアルトはオペラ初演のためプラハに向かった。時間がなくて馬車の中でも作曲を続けたが、戴冠式の来賓リストには彼の名はなかった。ヨゼフィーナは、モーツアルトの草臥れて青白くなった姿の変わりように驚くとともに、オペラに間に合わせるために贈られたアリアをテイトに使わしてくれと頼まれたりして、草臥れた作曲家にいろいろ支援を重ねた。



 体をすり減らして初演に漕ぎ着けたオペラであったが、初演は皇帝夫妻の不興を買い、失敗に終わった。そしてこれがヨゼフィーネとの最後の別れとなった。  それから3ヶ月後、困窮の中でモーツアルトはウイーンで亡くなり、共同墓地に埋葬されたと伝えられた。プラハではその死を悼み、聖ニコライ教会で追悼ミサが行われ、30分も鐘が鳴り続けたという。そして、4000人の人々が集い、120人の音楽関係者によりレクイエムが奏されたが、ソプラノを歌ったのは、ヨゼフィーネその人であったという。「プラハは私を認めた」とモーツアルトは思っていたに違いない。

 この映像はモーツアルトを認めたというプラハの人々の視線で、モーツアルトを描いたことに特徴があり、ウイーンで嫌われる元になった権力への反抗精神や自由万歳などにプラハが大いに共鳴したことを明らかにしている。これはプラハが辿った隣国との長い歴史を考えれば想像することができ、説得力があった。オペラの舞台などの音声や映像が素晴らしく綺麗であり、古い教会や劇場の姿が印象に残り、揺れるローソクに照らされた建物の装飾なども見応えがあった。史実にも忠実であり、何よりも美しいプラハの街が十分に堪能できることが楽しめる映像の元になっていた。

(以上)(06/12/09)



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