6-11-2、生誕250周年記念ドキュメンタリー「モーツアルト・イン・ザルツブルグ」制作;Euro Arts、2005年(約1時間)、

−ザルツブルグは神童モーツアルトを生み、育成して最高の作曲者に仕立て、彼をウイーンに送り出したモーツアルトの故郷都市である。−

6-11-2、生誕250周年記念ドキュメンタリー「モーツアルト・イン・ザルツブルグ」制作;Euro Arts、2005年(約1時間)、
(出演)アンジェリカ・キルヒシュラーガー、ダニエル・バレンボイム、オリ・シャハム、ギル・シャハム、ギュンター・バイアー教授、指揮者・オルガン奏者マルテイン・ハーゼルベックほか、
(06年10月06日、クラシカジャパンの日本初放送を、D-VHSレコーダーのLS-3モードで、S-VHSテープにデジタル録画。)


 このドキュメンタリーは、生誕250周年記念として、ザルツブルグの方々により、モーツアルトのザルツブルグ時代を解き明かすために試みられたものであり、2005年に制作されている。クラシカジャパンでは再放送が多いが、これは特に日本初放送として、大々的にPRしていた一時間番組である。内容は標題の通り、モーツアルトのザルツブルグ時代にスポットを当て、彼が生まれ育った独特の家庭環境やその日常生活、当時の政治的・歴史的状況を解明し、ザルツブルグと言う街がモーツアルトにどのような影響を与えたかを検証したものである。

 コメントには指揮者・演奏家のダニエル・バレンボイム、ヴァイオリニストのギル・シャハム、ご当地出身のメゾソプラノのアンジェリカ・キルヒシュラーガー、の他モーツアルテウムのギュンター・バウアー教授などが当たっており、内容に重みを持たせていた。 ザルツブルグ時代の史実はかなりよく知られているので、新しいことよりも客観的に上手に纏めたことに意義があると思われる。印象的なこととして、例えば、バレンボイムがベートーヴェンはドイツ人、ヴェルデイはイタリア人であるが、モーツアルトは国境を越えて活躍した初めての音楽人であったと述べていた。また、ザルツブルグの現大司教が登場したり、現市長がザルツブルグが今日あるのはモーツアルテウムのお陰であると述べていたのも印象的だった。



 男の子の誕生のシーンから小ト短調交響曲の冒頭の調べに乗って威勢良く始まるが、キルヒシュラーガーが登場し、ザルツブルグの山や川の景色を背景にして、「彼はザルツブルグの方言を話していたので、凄く親近感があり、彼が見た山や道が今でもある。」と語り始める。また、ヴァイオリニストのギル・シャハムが、「一口で言うと、彼は肝っ玉のある作曲家だった。」と言っていた。自信家で、故郷を喧嘩して飛び出し、ウイーンでただ一人で頑張ったことを指すのであろう。
 「モーツアルト・モーツアルト」と言いながら街中で人々が溢れているザルツブルグの現状は、日が当たりすぎて騒々しすぎる観光都市になり、まさにモーツアルトさまさまである。しかし、当時はもっと静かな人口1万6千人の落ち着いた街であったが、現在はその10倍になっているという。



 モーツアルトの才能を見出したのは父親のレオポルドであった。父親を「大きな野望を持つ凡人とか、俗物の宮廷役人」と言う人たちがいたがそれは間違いである。彼は副楽長にしかなれなかったが、4カ国語を話し、文学と政治に精通し、上流階級とも接触でき、ヴァイオリンの教則本を書いた音楽人であり、最新の音楽事情に通じていた。そして自身の経歴と資産を犠牲にして、才能豊かな息子を計画的に育て上げようとした。彼の指導法は画期的で、決して息子を束縛せず、遊び感覚で試行錯誤を繰り返しながら、基本的なものを習得させ、創造力を高める方法すら身につけさせたという。モーツアルトはトランプとかギャンブル好きだと言われるが、音楽もゲーム感覚や遊びの感覚で熱中することが出来たところが、普通の人と違うところであろう。



 地元で少年ピアニストとして活躍するロビン・ギースブレクト君がK.1のメヌエットを弾くが、レオポルドがナンネル用に編集した教則本によりヴォルフガングも学び、難しい作曲をも始めるようになって、6歳頃から旅行に出かけるようになる。旅行中は馬車の中が教育の場所であったという。中でも7歳から3年半にわたるドイツ各地、パリ、ロンドン等の西方への大旅行は、各地の王侯貴族に演奏の腕前を披露するものであったが、各地で音楽的な刺激も受け、作曲活動を本格的に始めた教育の場にもなっていた。この旅行を快く支えてくれたのが、当時のシュラッテンバッハ大司教であり、モーツアルトの最初のパトロンであったと言える。大司教がモーツアルトを部屋に閉じこめて作曲させた宗教曲「聖墓の音楽」K.42の有名な「天使のアリア」が演奏されたが、大司教が天才ぶりを評価したのがこの曲からであったと、この曲の作曲された経緯を、指揮者・オルガン奏者マルテイン・ハーゼルベックが語っていた。


 13歳から始まったイタリア旅行は、オペラを三度も作曲し成功させ、ローマ法王から騎士の勲章を受けるなど、若き音楽家としての賞賛を得たものであった。しかし、ザルツブルグに戻ると、彼の勝ち得た名声を評価する人はおらず、頼りの大司教が亡くなって、新しいコロレード大司教に仕えるようになった。モーツアルトは16歳から年俸150フローリンで宮廷コンツエルトマイスターに任じられるが、イタリアの「ルーチョ・シッラ」の作曲契約料は130フローリンで親子とも不満足であった。


 コロレード大司教は、赴任すると財政状態の立て直しにとり組み、全てのことに緊縮を要求し、音楽や楽団も例外ではなかった。現在のザルツブルグのコートガッセル大司教は、今は教会の仕事に専念できるが、当時は土地を治める領主だったので政治や財政を運営する傍ら教会の行事を行い大変であったと言う。そして芸術家を集めて、美術や芸術を振興させ、作曲を注文するのも大司教の仕事であったという。モーツアルトは、イタリアでは貴族から住民からこぞって賞賛を受けてきたが、ザルツブルグでは、交響曲、ミサ曲、セレナード、協奏曲など200曲余りを書いても、一般には高尚すぎて余り評価されず、音楽を重視しないザルツブルグに対して次第に嫌悪感を抱くようになってきた。



 活躍の場が限られていた21歳のモーツアルトは、宮廷楽団を辞職し母とともに就職の場を求めて足かけ3年にわたる旅に出た。しかし、ミュンヘン、マンハイム、パリと就職活動に失敗をし、パリで母を亡くし失恋も味わうことになった。オリとギル・シャハムのピアノとヴァイオリンでヴァイオリンソナタK.304の一部が演奏されたが、この曲にはレクイエムのラクリモサとそっくりの部分があり、母の死と関係があるのではないかと、似ている部分を弾いてくれた。モーツアルトは、父のお陰で宮廷オルガン奏者の地位を得て、ザルツブルグに戻り再び大司教に仕えることになる。この間に戴冠ミサ、交響曲、協奏交響曲、セレナードなど創造力を発揮した作品が生まれているが、コロレード大司教との折り合いは悪く、ミサ曲の中には大司教に対し嘲笑的な部分が残されているという。



 1781年「イドメネオ」で成功し、命令期間を無視してミュンヘンで長期滞在していたモーツアルトは、大司教にウイーンに呼び出され、大司教と致命的な衝突をしてしまう。それ以来、モーツアルトは、一度しか故郷に戻ることがなかった。
 現在のザルツブルグ市長のハインツ・シャーデン市長は、当時はハフナー市長が地方行政をやっていたが、支配するのは大司教であったので、やりずらかっただろうと言っている。モーツアルトは、文化都市ザルツブルグの名声の基盤であり、生家や住家と教会などを中心に集客の拠点となっているが、ザルツブルグが今日あるのは、19世紀に始まったモーツアルテウム財団の地道な活動に助けられてきたからだと語っていた。

 ザルツブルグの人々はアイネクライネを楽しげに口ずさむが、それは故郷を出てから作曲された曲であり、世界に知られ名声を得たのは10年後であった。「モーツアルトは、偉大な父親により、ザルツブルグで計画的に教育され、育成された音楽家だった。彼の息子は、音楽家になろうとしたが、モーツアルトのように教育されなかったので成功しなかった」と言う言葉でこのドキュメントは結ばれたが、ドキュメンタリーとしては短いながら、現実を良く伝えていたと思う。

(以上)(06/11/25)



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