(懐かしいS-VHSから;シモン・ゴールドベルグの追悼特集)
14-4-2、シモン・ゴールドベルグと水戸室内管弦楽団による交響曲第40番ト短調K.550、その他、
彼のヴァイオリンの生涯の記録、1993年4月19日、水戸市立文化会館、

−フルトヴェングラーとベルリンフイルのコンサートマスターとして、ゴールドベルクはその全盛時代を築き上げ、アンサンブル奏者として活躍を遂げた後、ユダヤ人であるが故に戦前・戦後と不遇の目を重ね、最後に日本に永住の地を見付けたが、リサイタルを前にして急逝するという薄幸なヴァイオリニストの貴重なドキュメンタリーであった−



(懐かしいS-VHSから;シモン・ゴールドベルグの追悼特集)
14-4-2、シモン・ゴールドベルグと水戸室内管弦楽団による交響曲第40番ト短調K.550、その他、彼のヴァイオリンの生涯の記録、
1993年4月19日、水戸市立文化会館、
(1994/02/20、NHK芸術劇場の放送をS-VHS107.3に3倍速でアナログ収録)

   第二曲目は、2月号のホルショフスキー追悼記念に続いて、早くから用意していた古いS-VHSテープから、やはりNHKの芸術劇場で取り上げられたこのシモン・ゴールドベルク(1909〜1993)の追悼記念のドキュメンタリー風の放送記録をお届けしたい。これには彼の最後の指揮者の姿が写されており、第40番のト短調交響曲が収録されていた。ゴールドベルクは、ポーランド生まれの天才ヴァイオリニストであり、ランドフスカに育てられていたが、弱冠20歳の時にフルトヴェングラーに認められてベルリンフイルのコンサートマスターに抜擢された天才であった。その一方で、リリー・クラウスとコンビを組んだりして室内アンサンブルにも名声を博していたが、ユダヤ人であったため、アメリカに亡命したり、戦時中に日本軍の捕虜になったりという不遇の道を辿ったヴァイオリニストである。「私は二度日本に捕まった」と彼に言わせるほど日本にご縁のあった方のようであり、この映像は84歳で富山県で逝去した彼の姿を追った貴重なものであった。



   このNHKの芸術劇場は、ゴールドベルクの最後の指揮振りを記録した1993年4月19日の水戸芸術館における水戸室内管弦楽団の演奏会の一部の放送と彼を偲ぶドキュメンタリー番組とを併せて放送して彼を追悼するものであった。彼は1993年7月19日、急性心不全でこの世を去り、享年84歳であった。彼は1909年にポーランドのユダヤ人の家庭に生まれ早くから才能を発揮し、弱冠15歳でベルリンフイルのコンサートに出演し、バッハを初めとする3曲のヴァイオリン協奏曲を演奏するという天才振りを示し、ベルリンに住むランドフスカの家で育てられたという。彼女からは「モーツァルトはしなやかな音で弾くべきだが、貧弱な音であってはならない」と教わり、それは全ての音楽に当てはまる教えなので今でも良く覚えていると、インタビューに答えて自分の言葉で語っていた。



   映像では、初めに水戸室内管弦楽団の交響曲第40番ト短調K.550 が彼の指揮で演奏されていた。彼の指揮法は、指揮棒を余り細かに振らずゆったりと全体を動かしていく指揮振りであり、第一・第四楽章では、前半の提示部だけを繰り返しており、第二楽章では前半も後半も繰り返しを行わず、またフルート・オーボエ版(第一版)を使っていた。

  第一楽章は、モルト・アレグロの弦楽合奏でさざ波を打つようなヴィオラの伴奏型に乗って軽やかに始まるが、ゴールドベルクは、オーソドックスな標準的なテンポで進み、合奏が良く揃ってとても美しく、厚みのある弦楽合奏を聴かせていた。軽快に進行してやがて第二主題に入って管楽器が活躍をし始めていたが、ここでよく見るとフルート1、オーボエ2、ファゴット2の布陣であった。ここでも標準的な落ち着いたテンポは変わらず、堂々と揺るぎなく進行していたが、ここで提示部の繰り返しがなされていた。そして、冒頭のしっかりした弦楽合奏が始まっていたが、彼の指揮振りはあくまでも穏やかな伝統的なものと感じさせていた。
   展開部ではゴールドベルクは、冒頭の導入主題を早めのテンポで繰り返えし、うねるような対位法的な展開が小気味よく進行し、次第に力を増しながらこの主題だけで進んでいた。そしていつの間にか再現部が始まっていたが、ここで再び二つの美しい主題が繰り返されていくが、ゴールドベルクは標準的なテンポを崩さずに、軽やかな手慣れた指揮振りで、最後までオーソドックスに進んで、駆け上がるように収束していた。ト短調交響曲の軽快さが溢れるような第一楽章であった。



  第二楽章は、ホルンの伴奏で美しい弦楽合奏のアンダンテの第一主題が軽やかにゆっくりと始まっていたが、途中から弦で現れる32分音符の休止を挟んだ3度動機のフレーズが実に美しく、これが次第に弦から管へ、管から弦へと発展し、上昇したり下降したり、うねるように繰り返され、特に管と弦との応答が実に印象的であった。やがて、第二主題に入って美しい弦楽合奏が開始されても、この特徴あるフレーズが余韻のように響いており、アンサンブルの良い管と弦の音色の美しさが魅力的であった。提示部での繰り返しは省略され、直ちに展開部に移行していたが、展開部でもこのフレーズが力強く弦から管へ、管から弦へと移行して、主として下降のパターンで展開されていた。再現部に入って、第一主題・第二主題と続いていたが、これらのなかにも弦と管のフレーズのアンサンブルの美しさが冴えており、弦楽合奏の中でフルート、オーボエ、ファゴットが新しい半音階的動機を登場させて歌い出す場面が美しく、綿々と続くこの楽章の独特の装飾効果と繊細なアンサンブルの良さに瞑目させられた。実に美しいアンダンテ楽章であった。



    第三楽章のメヌエットではゴールドベルクは、むしろ早めのテンポで軽快なアレグレットの弦楽合奏となっていた。このメヌエットは出だしの三小節のフレーズがカノン風に何回も繰り返されて進行する風変わりな楽しいメヌエットであるが、しっかりと三拍子を刻んで軽快に歯切れ良く進んでいた。トリオでは、ほぼ同じテンポの弦楽合奏で始まり、木管の四重奏がこれに応えて美しさを強めていたが、繰り返しの後は木管の四重唱の後に二つのホルンが響きだし、後半では力強い見事な管楽四重奏が続いて、いつも心配するホルンの出来がまずまずだったので、厚みのあるメヌエットを楽しむことが出来た。


   フィナーレはアレグロ・アッサイであり、ゴールドベルクは第一楽章とほぼ同様な穏やかな落ち着いたテンポで第一主題を進めていたが、軽快に軽やかなテンポでスムーズに流れるフルオーケストラが実に心地よい。流れるような見事な弦楽合奏が続いてから、やがてなだらかなヴァイオリン三部の第二主題が歌うように進行するが、ここでも木管が明るく歌い出していた。ここでゴールドベルクは同時代の指揮者と異なって提示部の繰り返しを丁寧に行っていたが、ごく自然な流れのように感じさせていた。展開部では冒頭の主題の動機が早いテンポで、弦でも管でも交替しながら執拗に繰り返されており、管と弦のアンサンブルが良く、後半に現れるホルンのファンファーレがまずまずの響きでであったので楽しめた。再現部でもこの安定した落ち着いたテンポが続き、第一主題・第二主題と流れるようにスムーズに進行し、一気にこの楽章が仕上げられていた。
   久しぶりで穏やかな落ち着いた感じの第40番ト短調の交響曲を聴いて、ゴールドベルクが師のフルトヴェングラーが残した録音のこの曲とは明らかに異なる彼自身の演奏であることを実感させた。演奏の水戸室内管もアンサンブルが良く、指揮者ゴールドベルクに応えた立派な演奏であったと思う。






       ゴールドベルクの輝かしいキャリアのスタートは、20歳の若さでベルリンフイルのコンサートマスター(1930〜34)に登用されたことで知られ、しかもそれはフルトヴェングラーの要請によるものとされ、このコンビはそれ以降においてこのオーケストラの黄金時代を築いたと言われている。また彼は作曲家で優れたヴィオラ奏者であるヒンデミットと斉藤秀雄の師であるチェロのフォイヤマンとトリオを組んで数々の名演奏を聴かせていたが、ナチスの時代になるとこの三人はいずれもドイツを去ることになるが、彼らとの交流は末永く続けられてきた。そして、インタビューでは「ヒンデミットは私よりも14歳も年上で、彼から、随分、作曲法について教えを受けた」と語っていた。
   続いて水戸室内管と演奏された曲は、ヒンデミットの「弦楽合奏のための5つの小品」という5曲の小品からなる短い曲集であったが、ここでは説明を割愛したい。




   ゴールドベルクと日本との関わりについては、丁度、昭和11年(1936)にさかのぼり、当時彼とハンガリー生まれの若き女流ピアニスト、リリー・クラウスとの二重奏は、世界中の音楽ファンを惹き付けていたが、日本では、とりわけ、モーツァルトの若々しい演奏が聴衆を喜ばせていた。このことは現代でも語り継がれており、日本でも熱心なゴールドベルク・ファンが誕生し、当時のSPレコードの録音が評判になっていた。さらに来日中にはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏(日本初)がなされたり、スプリング・ソナタが置き土産として日本コロンビアで録音されたり、クロイツエル・ソナタがNHKから放送されたことが新聞の話題になるなど、日本では画期的なことが行われていた。この二人はドイツ以外にも世界各国で演奏旅行を続けていたが、第二次世界大戦中にたまたま訪れていたジャワで、進駐してきた日本軍のために収容所に入れられ、終戦まで苦難の日々を送るという不運な目に遭っている。






   しかし、ゴールドベルクと日本との結びつきはそれだけには留まらず、1987年に弟子のヴァイオリニスト小林健二の招きで日本を訪れた彼は、ピアニストの山根弥生子と結婚し、それ以来日本に永住することになり、日本を音楽活動の拠点とするようになった。普段は空気の良い富山県の立山山麓に住み、夫人とともに一つの音符、一つのフレーズにもこだわって、音楽に全ての生活を捧げるという日々が始まったとされる。彼が「日本に二度捕まった」と語る所以はこの辺にある。








   映像では水戸室内管の演奏で、バッハの組曲第2番ロ短調から「序曲」が始まっていたが、独奏者にはフルートの若き工藤重典さんがソリストとして活躍しておられ、この演奏はゴールドベルクの人柄が偲ばれる奥ゆかしいものであった。

   この日のコンサートが彼の最後の指揮となったようだが、この夜のパーテイでは、来る9月11日の彼と奥さんのヴァイオリン・リサイタルの準備がなされていることを知らされた。彼はインタビューで彼の尊敬する三人の音楽家クライスラー、フルトヴェングラー、ランドフスカについて聞かれて、クライスラーについては、彼よりも上手に弾いた人がいるかもしれぬが、彼は魔術のようなものを持っていた。魔術とは音楽を新しい方向に導くものと語っていたが、他のお二人についても、魔術のようなオーラを持った方々だったと語っていた。










   この聞き手はドイツ語が堪能な小塩節中央大教授であったが、インタビューの直前までの奥さんとのレハーサルの曲はモーツァルトのソナタであったと聞いて、聞かせて欲しいとリクエストしたところ、どうぞコンサートにいらして下さいと言っていた。この期待されていたリサイタルのためレハーサルを重ねていたようであるが、7月19日にゴールドベルクは急性心不全で残念ながら急逝してしまった。このゴールドベルクのレハーサルの演奏は素晴らしいものであったと夫人は語っていた。プログラムには、ヴァイオリン・ソナタK.379とK.380の2曲のほか、ブラームスの第1番・2番の曲が並んでいた。



   映像はこのリサイタルのチラシがクローズアップされて終了していたが、関係者にとっては誠に残念なことであった。フルトヴェングラーとベルリンフイルのコンサートマスターとしてその全盛時代を築き上げ、アンサンブル奏者として活躍を遂げた後、ユダヤ人であるが故に戦前・戦後と不遇の目を重ね、最後に日本に永住の地を見付けたが、リサイタルを前にして急逝するという薄幸なヴァイオリニストの貴重なドキュメンタリーであった。

(以上)(2014/04/25)


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