(最懐かしいS-VHSから;ホルショフスキー99歳の芸術−ルツエルン音楽祭(1990))
14-2-1、ミエチスラフ・ホルショフスキーの芸術、ピアノソナタ第11番イ長調K.331、ルツエルン音楽祭(1990)、およびピアノソナタ第12番ヘ長調K.332、1987年12月9日、カザルスホール収録ほか多数、TVドキュメンタリ「99歳のモーツアルト弾き−ホルショフスキーの奇跡」、テレビ朝日の放送より、

−このドキュメンタリーは、99歳まで現役のピアニストとして活躍した巨匠ホルショフスキーの実際の姿を克明に報じたものであり、その人の執念と支える人や環境があって初めて達成できることが如実に示されている。100歳まで元気で日常生活を過ごすと言うことは大変なようであるが、ピアノを弾くという生き甲斐が彼の精神を支え、ビーチェという限りなく献身的な人の存在のお陰で長寿が保てたことを教えられたドキュメンタリーであった−




(懐かしいS-VHSから;ホルショフスキー99歳の芸術−ルツエルン音楽祭(1990)−)
14-2-1、ミエチスラフ・ホルショフスキーの芸術、ピアノソナタ第11番イ長調K.331、ルツエルン音楽祭(1990)、およびピアノソナタ第12番ヘ長調K.332、
1987年12月9日、カザルスホール収録ほか多数、TVドキュメンタリ「99歳のモーツアルト弾き−ホルショフスキーの奇跡」、テレビ朝日の放送より、
(1991/01/15、テレビ朝日の放送をS-VHS-029.4に3倍速でアナログ収録)

   2月号の最初のソフトは、1991年のモーツァルト・イヤーに収録したテレビ朝日の「99歳のモーツァルト弾き−ホルショフスキーの芸術−」と題されたドキュメンタリーであった。ホルショフスキーは、パブロ・カザルスの伴奏者であり、シゲテイとトリオを組んだ旧き仲間たちとしてこの映像があったことは覚えていたが、その中味については全く覚えていなかった。高齢でも現役並みに活躍しておられたホロヴィッツ(1904〜1989)の演奏をアップロード(13-1-2)した例や、高齢になっても録音を続けたルービンシュタイン(1887〜1982)の例もあり、ピアニストには高齢者が多いのかと関心を持って改めて見直し、ご報告することにした。データベースでは、ピアノソナタ第11番K.331および第12番K.332の2曲がリストアップされていたが、一聴したところ全曲演奏ではなく、部分収録のライブ映像であった。しかし、兎に角、貴重な素晴らしいライブ記録であることが分かり、ドキュメンタリーの部分を含めてご報告することにした。



映像の冒頭に1990年8月のルツエルン音楽祭のシュヴァイツアー・ホテルの大ホールでピアノソナタ第11番イ長調K.331の第1楽章を弾き始めた姿から始まった。ミエチスラフ・ホルショフスキー(1892〜1993)は、その時まさに99歳であったが、まれに音が欠けるところがあっても音楽は淡々として良く流れており、見事な弾き振りであった。この演奏中にピアニスト・ホルショフスキーの紹介があり、ポーランドに生まれで、幼少の時から神童として騒がれ、演奏旅行で大忙しであったと言う。その頃の逸話として、彼が14歳の時のナポリでの演奏旅行の際に、ベスビオ火山の大噴火が起きて町中は大変であったと言う。少年モーツァルトも14歳の時に煙を吐いているベスビオ火山を見たことを思うと感慨深いものがあると述べていた。



このソナタの演奏は、第一楽章を終えると、第二楽章を省略して第3楽章のトルコ行進曲が始まっていたが、ここでも通常の好ましいテンポでしっかりと弾かれており、99歳という年齢を感じさせない演奏に見えた。この演奏は、ルツエルン音楽祭のホテルで開催されたコンサートであり、彼はこの音楽祭には毎年のように参加して居心地の良いホテルで演奏するとともに、若いピアニストのためのマスタークラスを3回も開催する活躍振りであった。



このルツエルン音楽院におけるマスタークラスも映像で紹介されていたが、二人が手を繋いで会場の音楽院に向かい、やっと階段を上がる姿で年齢を感じさせていた。 これは奥さんのピアニストであったベアトリーチェ(ビーチェ)の献身的な手伝いにより、スムーズな進行がなされているもののように見えた。若い人たちを相手にする会場では、大きな声を出して「早く弾くな」、手で拍子を取りながら「同じテンポで」と注意を繰り返しておられた。会場には30人くらいの各国からの生徒が詰めかけており、彼らの先生から夏休みにホルショフスキー先生に指導して貰えと言われてきた生徒たちのようであった。
マエストロは、目と足が弱くなって来ていたが、若い頃にはスイスの山を全て登ったと言うほど鍛えられていたようであった。1980年にプロポーズされて結婚したようであるが、この時新郎は89歳、新婦は49歳であり、ピアニストであったビーチェの愛情と尊敬の念と献身ぶりをよく知っていた巨匠の修道尼の妹さんの薦めで結婚したという。それ以来、彼女は文字通り杖替わりの役割を果たしており、彼が101歳まで生きた活力の源は、奥さんのビーチェの支えによるものであろうと思われる。巨匠は「喜んで演奏を聴いてくれる人がおられる限り、努力して演奏を続けて行きたい」と語っていたという。
映像ではシューマンのトロイメライを弾くマエストロの姿が写されていたが、ビーチェが食事に細心の注意を払い、良く睡眠を取ることに気をつけている姿が写され、それでもかんしゃく玉が破裂することが多くなったとこぼしていた。この日もしつこいインタvユー記者が、作曲家の誰が好きかの問いに、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンと答えていたが、中でも誰が好きかという質問にかんしゃく玉が爆発し、この順番に好きなんだと、うるさそうに答えていた。



日本には、1987年12月9日、お茶の水のカザルス・ホールで最後の演奏を行っているが、標記のピアノソナタ第12番ヘ長調K.332を弾いてくれた。このホールはカザルスの名が示す通り、彼の来日を記念して建てられたホールであるが、ホルショフスキーはヴァイオリンのシゲテイ、チェロのカザルスとともにトリオを組んで有名であった。またいつもカザルスのチェロの演奏のピアノ伴奏を務めており、音楽で平和を語った偉大なチェリスト・カザルスの共演者としての深い付き合いがあった。



カザルスの話題になって、映像は、突然、ビーチェより若そうなマルタ・カザルス・イストミン夫人(カザルス未亡人)がインタビューに答えて、次のように語っていた。「80歳のカザルスと結婚したときには、ホルショフスキーはフェスティヴァルやクリスマスの時などはいつも一緒で、家族の一員のようであった。彼はいつも靜かで控えめなのは今と同じであるが、一旦語り出すと百科事典のように博学で話が止まらなくなる」と語っていた。彼女はカザルスの死後、イストミン夫人になったようであるが、ホルショフスキーの結婚話を聞いて、ビーチェをよく知っていたし、大喜びで大賛成をしたとにこやかに語っていた。



カザルス・ホールでは、95歳の現役のピアニストの来日コンサートと聞いてマスコミの大きな話題となり、大勢の記者団が駆けつけて記者会見が行われていたが、記者団に答えて、亡きパブロ・カザルス(1876〜1973)に対する深い思いがあって、東京でのこのコンサートが実現したという話をしてくれた。さらにカザルスが、毎朝家中で一番早く起きてピアノに向かい、バッハの「プレリュードとフーガ」を弾き、これから始まる1日をバッハに捧げていたと語っていた。その時、集まっていた記者の一人が、カザルスが亡くなったときの様子を聞かせてくれと不見識な質問をしたので、「君はどうして人の痛みに触れるような質問をするのか」と怒りだした様子が写されていた。



ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332は、冒頭から淡々とした表情で、幾分遅めのテンポでどこか暗い感じの、しかし楽しげな3拍子のリズムで進んでいたが、メヌエット風の主題や新しい元気の良い主題が次々と顔を出して、明るい雰囲気で提示部を終えていた。演奏は第二楽章のアダージョに進み、陰影に富んだ美しい主題が続いており、味わい深い淡々とした演奏振りで進んでいたが、途中から画面が変わり、この東京のカザルス・ホールでの演奏がCD化されて、後日、CDプレイヤーが東京の知人から送られて来て、自宅でバッハのイギリス組曲第4番の音楽を楽しむ様子が写されていた。ホルショフスキーはこの録音をとても気に入ったようで、良いテンポだと言いたげに拍子を取って、終始、ご機嫌であり、「カザルスにこれを聞かせたかった」と語っていたのが印象的であった。



   ドキュメンタリ−には、もう一つ1990年4月23日、ニューヨークのカーネギー・ホールでのライブ演奏が含まれていた。彼にとっては、このホールには神童時代から特別な思い出があり、1906年の14歳の時にコンサートを開こうとしたが、直前になって、16歳未満では若すぎて児童福祉法に違反すると、中止になった経験があったようだ。ここでは前日のレハーサル風景が写されており、ピアノに座ってしきりに照明の明るさを気にしていたが、目が次第に悪くなっており、強い照明がきついようであった。また、ピアノに座ったまま不機嫌な様子であったが、周りの記者団の出す騒音が気になるようで、「静かにしろ」と怒鳴りだし、かなりうるさい老人振りの一面も写し出されていた。
コンサートでは、バッハのフランス組曲第6番BWV817の演奏が紹介されており、これも淡々とした穏やかな素朴な曲のように演奏されていた。続いてシューマンのアラベスク作品18が演奏されていたが、その間にテロップでホルショフスキーの細かな経歴がテロップで流されていた。



突然に画面が変わってフィラデルフィアのカーチス音楽院が写されており、彼はルドルフ・ゼルキンの招きで1940年からカーチス音楽院に籍を置き、一室を持って生徒に個別指導をしてきたが、この教室からはP.ゼルキンやE.イストミンが卒業している。この日は東京から来た相沢吏江子(当時16歳)に直接指導をしていたが、彼女は週一回で1時間ぐらいであるが、2時間にも及ぶことがあり、怒られたりして厳しい先生だと語っていた。また、これまで指導をしてきたのは、中国の上海出身の李堅(リ・チェン)で、87年から90年までの指導を受けており、ご自宅のピアノで最終レッスンを行って卒業という場面が写されていた。この日に巨匠が彼に贈った言葉は、「イタリア語のアレグロの第一の意味は「明るく」だ。緊張すると速くなるようだが気をつけろ」と述べていた。因みに彼がこの日に弾いていた曲は、第9番のK.311の第一楽章であった。
ご自宅では午後からの散歩が欠かせない日課となっており、ビーチェ夫人を杖にして1日1日を大切に重ねていく毎日であると言う。彼女はいつか必ず訪れる日のことを考えなければならないが、それは神様にお預けすることにして、「彼が健康で幸せなときが私の幸せなときです」と語っていた。自分の音楽に満足しつつ、健康で機嫌が良く、私と一緒に入れることを喜んでくれるときが一番の幸せですと述べていた。



   最後に冒頭に写されたルツエルン音楽祭のホテルの会場の様子が写されており、ステージに立つ前のマエストロの姿が写されていたが、階段があるかどうかを気にしていた。この一時が神への祈りを捧げるときですとビーチェが言う。舞台ではショパンの幻想即興曲が始まっていたが、冒頭の一音を長く伸ばして巨匠らしい仕草で音楽が進んでいた。ステージの陰では神に祈るビーチェの姿があった。凄い拍手で巨匠はステージに戻ったが、ビーチェは「いつも有り難う」という言葉しかありませんと語っていた。



   巨匠は19世紀から20世紀へと長い道のりを歩んできた。来年には100歳になるというところでドキュメンタリーは結ばれていた。ビーチェは「夫の1年は普通の人の4年分くらいに相当します。以前より気むずかしくなりました。神の恵みの中で疲れないようにして、一日一日を大切に精一杯生きていきます」と語り、ご自宅でのピアノの練習風景で、巨匠のドキュメンタリーは終了していた。
   100歳まで元気で日常生活を過ごすと言うことは大変なようであるが、ピアノを弾くという生き甲斐が彼の精神を支え、ビーチェという限りなく献身的な人の存在のお陰で長寿が保てたことを教えられたドキュメンタリーであった。

(以上)(2014/02/06)


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