(懐かしいビデオテープより;1997年モーツァルト劇場公演のオラトリオ)
12-7-3、本名徹次指揮、高橋英郎歌詞・台本・演出による二部の宗教劇「救われたべトゥリア」K.118(74c)、1997年7月12日、モーツアルト劇場、東京芸術劇場中ホール、日本語、

−わずか15歳のモーツァルトが、素晴らしい曲と言葉で、神の問題を扱い、高橋先生が述べているように、オラトリオの劇作品として、現代にも通づる作品となっていることに改めて敬意を表したいと思う。日本語オペラとして挑戦された努力に対しては評価したいが、必ずしも成功しているとは思えないのが残念であった−

(懐かしいビデオテープより;1997年モーツァルト劇場公演のオラトリオ)
12-7-3、本名徹次指揮、高橋英郎歌詞・台本・演出による二部の宗教劇「救われたべトゥリア」K.118(74c)、1997年7月12日、モーツアルト劇場、東京芸術劇場中ホール、日本語、
(配役)オツイーア;五郎部俊明(T)、ジュデイッタ;永田直美(A)、アキオール;黒田 博(B)、アミタール;山本真由美(S)、カプリ;柳沢涼子(S)、カルミ;小畑朱美(M)、
(2008年10月26日;八が岳山麓のMozart Goodsの店にて、) 


             7月号の第三曲目は、懐かしいビデオテープより、1997年のモーツァルト劇場公演のオラトリオである二部の宗教劇「救われたべトゥリア」K.118(74c)をアップする。本名徹次指揮、高橋英郎訳詞・台本・演出によるもので、1997年7月12日に東京芸術劇場中ホールで収録されている。この映像の特徴は、「日本語上演」と言うことで、高橋氏の持論が生かされたもので、氏の手による訳詞・台本・演出が一体になった公演であった。氏がモーツァルテイアン・フェライン会長を辞められ、モーツァルト劇場に専念なさったのは1988年頃であったろうか。先生は毎年一本の日本語オペラをモーツァルト劇場として公演されていたが、その当時手がけられた「フィガロ」や「コシ」などの日本語上演は、フェラインの新入会員として見に行っており、良く記憶している。

   最近ではモーツァルト・オペラは、グローバルな時代になって原語主義になっているが、1991年のモーツァルトイヤーの頃までは、ドイツ語圏では過去の慣習に基づいてドイツ語で上演するのが主流であった。ところがカラヤンの全盛期ころであろうか、ザルツブルグ音楽祭には各国から優れた超一流の歌手たちが集められて豪華・華麗なオペラの時代が始まっていたが、原語主義で育ったオペラ歌手たちは、ドイツ語で歌うことに抵抗を示し、演奏者の都合で伝統のあるドイツ語圏のオペラ劇場でも、次第にドイツ語で歌う歌手が少なくなり、最近では場末の劇場でなければドイツ語のオペラが見られないような状況になっている。
   高橋先生は、当初から「日本のオペラは日本語で」と主張され、日本語への翻訳からご自分でなされ、アリアを日本語で歌わせることに力を注いでおられた。私はLDでドイツ語によるオペラを見て、先生の言うように歌手の動きが良いことに普段から着目していたが、ウイーンのフォルクスオーパーで「フィガロの結婚」のライブを見て、有名歌手がいるわけでないのに、舞台が生き生きとして活気があり、歌手たちの反応や動作が素晴らしいのに感動したことがあり、熟成されたドイツ語オペラは、素晴らしい舞台を生み出すことを知って、先生のおっしゃる意味を良く理解した。しかし、オペラ界の現実は、観客の都合よりも、残念ながら、演奏者の都合で決まるものであるようだ。一流のオペラ劇場は競ってグローバルな国際的歌手を呼ぶのが現状であり、各劇場の字幕方式がどこでも簡単に整備されるようになって、今や原語主義に異論を唱える人はごく少数派になってしまったようである。

   この映像は、高橋先生の訳詞・台本・演出の日本語上演記録であり、こうした原語主義に挑戦するかのような作品であったので、改めてもう一度、日本語のオペラを考えるに適切な素材であるように思われた。幸いM22には、演奏会形式であるが、われわれが初めてこのオペラを映像で見ることが出来たDVDもあるので、両方を比較しながらこの問題を考えてみたいと思っている。先に述べた、日本モ−ツァルト協会のオペラサークルで、この極めて珍しい映像を皆さんに見ていただく候補の一つにならないかと考えている。この古い宗教劇は、全16曲のアリアと合唱からなり、当時のイタリアのオラトリオの伝統に従って二部に別れ、各曲の前には劇の進行がレチタテイーボで語られるが、コロラチューラの多い華麗なアリアや、アリアの前奏や伴奏などの充実した管弦楽などはオペラ的であった。しかし、モーツァルトの得意なアンサンブルが一曲もなく、合唱曲を重視しており、祈りの部分がある信仰的なアリアには弦楽だけの伴奏にしたり、何よりも主役のジュデイエッタにアルトの声域を与えていることなどは、オラトリオ的な要素が強いと考えても良い。



             映像ではタイトルや出演者たちが静止画で写され、第一幕としてこの曲の序曲の自筆譜の最初のページが示されてから、威勢良く速いテンポの序曲が開始されていた。舞台ではアレグロのテンポに合わせて人々が不安で苦しみ逃げ惑うような様子が写されていたが、アンダンテの中間部になると暗い静かな音楽に合わせて喪服の婦人が祈りを捧げていた。最後のプレストに入ると指導者らしき人が祈りを捧げており、序曲は不安げな暗い人々の姿を写しながら終了していた。その人々が集まる広場に、ベトウーリアの首長オツイーアが、「ベトウーリアの民よ」と呼び掛け、長いレチタテイーボで、アッシリア軍によって包囲され悲惨な苦しい状況を説明していた。そしてオーケストラの長い序奏の後に、第1曲「あまりの怖れおののきは」と歌い出し、敵よりも怖いものは、必要以上に恐れすぎて神への信仰心が揺らぐことだと述べ、信仰と愛と希望の三つが我らを救うと高らかに歌っていた。華麗なコロラチューラを含むソロにコンチェルタントな伴奏で、カデンツアまで用意されたアリアであった。



             カーブリ族の首長(女性)とイスラエルの貴婦人アミタールが、敵の将軍ホロフェルネスが全ての井戸を占領し、ベトウーリアから水を絶とうとしていることを述べ、危機が迫っていることを訴えた。しかし、カーブリが女性ながら、敵に屈しないで勇気を持とうと力強く第2曲「こんなにむごい出来事のさなか」でも負けないで、勇気を持って頑張ろうとト短調のアリアを歌っていた。この憂いに満ちたアリアは優れたもので、伴奏は管を省いた弦楽器だけであった。一方の貴婦人アミタールは、飢えと乾きを恐れる母としての苦しみを訴え、オツイーアに対してただ祈るばかりでなく、アッシリアと話し合い、飢えと乾きで苦しむよりも降伏をと、第3曲「なんという冷酷なひとよ」と歌いながら、何もしないオツイーアを責め、激しく迫っていた。この山本真由美のソプラノのレチタテイーボとアリアは、良く歌っているものの日本語として殆ど聞き取れず、むしろ字幕の方が分かりやすいのではないかと、矛盾を感じながら見ていた。



             首長オツイーアは、レチタテイーボで敵は神も法もない野蛮な連中で、最後には城門を明け渡すほかすべはないが、「5日間だけ待とう」と決心し、その間、一緒に神に祈りを捧げてくれと諭し、オツイーアが「主よ、あなたがお怒りなら、敵を罰して下さい」と祈り、続いて合唱団も市民の祈りとして歌う第4曲合唱付きアリア「神よ、お怒りなら」が始まった。ピッチカート付きの伴奏で敬虔なソロが歌われ、続いて合唱もこの最も有名な曲を復唱して、ソロと合唱が三度、繰り返された。そして最後には城門を開くしかないと祈っていた。



             首長や長老たちの話を耳にして、そこへマナッセの未亡人ジュデイエッタが喪服姿で登場し、伴奏付きのレチタテイーボで、人々の神への信仰が揺らいでいること、降伏しか道がなく、街を明け渡す話があることに驚いて、激しい口調で第5曲「川の流れがよどみ溢れる」と歌い出し、信仰が薄れ暴挙に走れば、作物が育たないと、ゆっくりとアリアを歌った。オツイーアは、ジュデイエッタの口調を「神の声のようだ」と驚いていたが、彼女はレチタテイーボで街の救出のために一計を思いついたと言い、これから準備をするので、私を見守って下さいと語り、オツイーアに日暮れに城門で待って欲しいとお願いしていた。再び第6曲として合唱付きアリアが歌われていたが、これは第4曲の反復であり、ソロと合唱が繰り返されていた。

                   そこへ族長カルミ(女性)がホロフェルネスの盟友であり異教徒のアンモン人の首長アキオールを連れてきた。アキオールはホロフェルネスに、べトウーリアの住民の信仰心が強いので陥落しないと進言したため、敵将の怒りに触れて追放されたのであった。彼は第7曲のバスアリア「恐ろしい顔つきに」と歌い出し、粗野で高慢なホロフェルネスは、自分が神だと自負して傲慢になっていると歌っていた。オツイーアがアキオールの身の安全を確約したところへ、ジュデイエッタが赤い派手な衣裳で美しく着飾った明るい姿で現れ、日が沈むので城門を開けてくれと、第8曲のアリア「私は行きます。武器も持たずに」と歌い出していた。この曲は、アレグロの彼女の決意に満ちた堂々たるアリアで、中間部のアダージオでは、心の中では勝利を得ると聞こえていると歌っていた。オツイーアは、神が彼女に霊感を与えてくれたのだと信じて城門を開け、彼女の無事を皆で神に祈ろうと語りかけていた。

                そして第一部のフィナーレとして舞台では第9番の合唱が「ああ驚き!ああ夢か!」と歌われ始め、民衆はジュリエッタの決意に驚いて歌っていたが、無謀には見えないしっかりした彼女の姿には希望を与えてくれると、彼女の成功への祈りを込めて歌い、彼女を送り出して第一部の終わりとなっていた。

                第二部では、四日後と言う字幕が出て、オツイーアと異教徒のアキオールとが神について議論しており、オツイーアが唯一の絶対神を信じなければ信仰でないとして、第10曲のアリアで「もしあなたが神の姿を見たいなら」この世のすべての物に見ることが出来ると歌っていた。これに対してアキオールは、イスラエルの神を崇拝こそすれ、唯一の神に対する信仰など理解できないと告白していた。そこへ心配症のアミタールが登場し、飢えや渇きの状況は悪くなっているが、この静けさはどうしたのか、不吉な前触れでないかと心配し、第11番のアリア「嵐すさぶ中で」と歌い出したが、このアリアでは、船長が黙るのは難破が近いからだと、しきりに心配して歌っていた。コロラチューラのアリアで中間部のアンダンテでは、病人の呻きが止まるのは死の前兆であるとも歌っていた。


          その時、突然に「武器を取れ、城門を調べよ」と言う騒ぎが外で起こり、そこにジュデイエッタが一人で登場して来た。霊感を得た身には怖さはなかったと語り、ホロフェルネスを自分で殺したので、ベトウリアはもう安全だと告げてから、「聞いて下さい」と伴奏付きのレチタテイーボーで激しく語り出した。彼女は城を出ると直ぐにアッシリアの番兵に捕まって、ホロフェルネスの前に差し出され、隊長たちにも囲まれて夕食を共にさせられた。ワインを沢山皆に注ぎ、夜も更けて隊長たちも一人ずつ帰り、飲み疲れたホロフェルネスと二人になるのを待つと、神のお陰か、彼が無警戒に寝込んでしまった。そこで「さあ、今です、イスラエルの神よ」と祈りながら、傍にあった剣で彼の首を思い切って撥ね、その首を見つからぬように証拠として持ち帰ったのであった。



             この長い告白のレチタテイーボの終わりに、彼女の従者の持ち帰ったホロフェルネスの首をオツイーアは見て、後にいたアキオールに確認させ、彼女の話が正しいと分かり一同は驚愕。彼女は美しいオーケストラの前奏に続いて歌った第12番のアリアでは、アレグロで「捕われの身には」と歌い出し、晴れやかな所に戻った囚人には、陽の光は眩しすぎて目を閉じると歌い、3拍子のアンダンテに変わった中間部では「陽光よ、再び照らして、元気づけ給え」と歌い、力強くダ・カーポしていた。




               続いて打ち落とされた首をホロフェルネスのものと認めたアキオールは、奇跡だと驚き、今までの神を捨て、イスラエルの神への信仰を誓うとして、第13番のアリア「褒めたたえよう」、私はあなただけを敬いますと歌って誓っていた。続いてアミタールが始めの第3番で神への不信を歌ったことを詫び、第14番アリア「余りにつらい絶望の中で」と歌い出し、この魂はあなたを冒涜しました、どうか主よ、お慈悲をと、信仰の足りなかったことへの許しを願っていた。




                そこへ、首長カルミ(女性)が外から戻り、アッシリアの兵がホロフェルネスの死を知り、敵陣ではパニックが生じて、互いに殺し合いが続き敗走していると伝えた。皆が驚いているうちに、カルミは第15番「はるかかなた、夜通し続く」と歌い出し、味方が勝利したことを一同に報告した。




                一同が揃って、「夢か、真か」と喜び合い、オツイーアが「町を挙げてお祝いしよう」とジュデイエッタに告げ、カーブリが「いつまでも語り継がれるでしょう」と言い、アミタールは「あなたは希望の星だ」と一人一人が、ジュデイエッタの勇気と行動を誉め称えていた。しかし、彼女は「十分です。私は神の手先になっただけ」「あの一撃もそうです」と神にこそ感謝すべきと、謝意のすべてを固辞し、全ては神のお導きと謙虚であった。フィナーレは、明るい前奏の後に第16番「褒め称えよ、偉大な我らの神よ」と合唱で始まり、続いてジュデイエッタのソロが続いてから、再び「偉大な神を讃えよう」と大合唱が繰り返されていた。この喜びの合唱とジュデイエッタの謙虚なソロが三回繰り返されるうちに次第に盛り上がり、「ベトウーリアは解放された」、「勇気を出せ」、「傲慢こそ大罪だ」と勝利を喜ぶ合唱の中でジュデイエッタが一人光で照らされた道を歩む姿を印象づけながら、この大規模なオラトリアは壮大に終結していた。

   この映像は、日本語上演のために訳詞から台本・演出まで全てを担当された高橋先生の解釈によるものであり、舞台が終了してから先生の一言があり、それが非常に重いものだったので、ここに要約しておこう。「この宗教劇は、上演された記録がないので、モーツァルトも見ていないかもしれないが、今回、この2100年前の古い劇が上演できたことは世界的にも注目される公演であると思われる。最後にジュデイエッタが光の道を歩んで行くが、平和を愛し、戦争を憎む一人の女が、讃えられながら自立して前進している。この道は、2000年以上も空間を隔てているが、現代にも繋がっており、その実現のため現代にも甦って欲しいと言う意識で考えてみた。そのコンセプトは教会の中の単なる宗教劇でなく、神を信ずるものも、信じないものも、ジュデイエッタが何を信じて歩み続けたかを、現代の皆さん方に考えて欲しいと思った。わずか15歳のモーツァルトが、素晴らしい曲と言葉で、神の問題を扱い、劇作品として現代にも通づる作品となっていることに改めて敬意を表したいと思う。」

   年一回の日本語上演で、独自のご苦労を一身に受け、さらに資金面でも苦しんでおられた高橋先生に、素晴らしい映像を残されたことに、感謝したいと思う。その成果は、先生のお言葉にあるとおり、この劇が現代に於いても再評価するに価するとしたことにあろう。しかし、先生の意図通りに行かなかった面についても、幾つか触れておこう。その第一は、日本語オペラでも、特にソプラノの言葉は非常に聞き取りづらく、むしろ字幕の方が分かりやすいと思った。歌手の努力が必ずしも効果を挙げていないという事実であり、考えさせられた。第二は、オーケストラが貧弱であり、指揮者の努力にも拘わらず、音楽的な魅力が半減したことである。弦楽器が薄いのは少数なのでやむを得ないが、4ホルンと2トランペットが鋭く音を外すので、耐え難かった。これは10年後の今では、恐らく解決できた問題であったと思われる。

                 この曲は、15歳の作品とは思われない大曲の堂々たるオラトリオであり、現代にも通づる起伏の激しい内容を持つものと思われる。中でも3曲の大きなアリアを歌ったジュデイエッタの永田直美の劇的な歌唱力や豊かなアルトの表現力には敬意を表したいと思ったし、女性の中では一番日本語が聞き取りやすかった。また、同じく3曲のアリアを歌ったソプラノのアミタールの山本真由美は、歌はまずまずであったが、日本語が一番聞き取りにくく、問題であると感じた。オツイーア役の五郎部俊朗は、歌も良く日本語もまずまずで安心して聴くことができた。モーツァルトの初期の劇作品は、カストラートの時代でもあって、女性役が多くCDではリブレットを見ても区別が付かないというもどかしさがあったが、映像によって主役の様子が分るので、理解力は格段と高まり、アリアへの関心が全く異なってくる。この「救われたベトウーリア」を含む初出の映像の効果は、予想以上のものがあったし、初めての日本語オペラとしては、問題が残されたもののまずまずの成果は得られていたと言えよう。以上、私だけの感覚で、申し上げてきたが、オペラサークルの皆さん方の意見も広く参考にしたいと思っている。

(以上)(2012/07/26)


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