ベルリン・ライプチヒ旅行の写真集の続き、

12-5-1、ベルリン写真集−2、ベルリンの駆け足三日間の名所巡り、

−ポツダム広場/ウンター・デン・リンデン/グルーネヴァルト駅17番線/シャルロッテンブルク宮殿/ポツダム・サンスシー宮殿などのご報告−              

  倉島 収(千葉県柏市K.449)


(ベルリン・ライプチヒ旅行の写真集の続き)
12-5-1、ベルリン写真集−2、ポツダム広場/ウンター・デン・リンデン/ブランデンブルグ門/グルーネヴァルト駅17番線/シャルロッテンブルク宮殿/ポツダム市内/サンスーシ宮殿などのご報告−

1、はじめに、

        ベルリン二日目の午後からはポツダム広場で過ごし、フイルハーモニー内部のガイドツアーや楽器博物館・絵画館などを見て、夜はコミッシェ・オーパーであった。三日目は、朝からウンター・デン・リンデンを散策して、ブランデンブルグ門からタクシーでティーア・ガルテンを経由し、クーダムで昼食を取り、ユダヤ人捕虜の護送基地・グルーネヴァルト駅17番線を見学してから、シャルロッテンブルク宮殿を一周して、夜はドイツ・オペラ・ベルリンでドイツオペラ「魔笛」を見た。ベルリン四日目は、荷物をベルリン中央駅に預けて、ポツダム1日ツアーに参加し、午後から列車でライプチヒに向かい、夜は聖トーマス教会で「マタイ受難曲」を見るという充実した日になった。


2、フィルハーモニーの内部のガイドツアーに参加して、


  地下鉄でポツダム広場に到着し、広すぎて戸惑ったが、やっと目指すソニーセンターに到着し、広場で昼食を取り、これから訪問する広場周辺の所在を確かめた。時間制約のあるのは、館内のガイドツアーであり13:30分に入り口集合であった。





外見がテントを張ったように見えるところから別名「カラヤン・サーカス」と呼ばれるフイルハーモニー・ホールは直ぐに分かり、3ユーロで館内ツアーに参加出来た。係の人がドイツ語と英語で説明してくれた。東側のコンツエルトハウス・ベルリンに対抗する形でカラヤンが音楽監督を務めたベルリンフイルの根拠地として設計され、1963年に全く斬新なコンサートホールとして完成された。写真のように、観客席が舞台を取り囲むように空間設計され、音響の良さで定評があり、東京のサントリーホールの手本となっているし、最近では、ライプチヒのゲヴァントハウス・ホールもこれと似た設計になっている。





折から女性のヴァイオリニストが音を確かめており、サン・サーンスの序奏とロンド・カプリチオ−ソが弾かれていた。今回は残念ながらこのホールで聴く機会はなかったが、何十本もDVDやビデオがあるので、勝手知ったホールであった。


3、フリ−ドリッヒ大王のフルートで名高い楽器博物館と著名な絵画館、

   余り予備知識のないまま、フィルハーモニーに隣接されていた楽器博物館に入ったが、真っ先に目に入ったのはフリ−ドリッヒ大王の写真や譜面が飾られており、ガラスのケースに入ったフルートが2本、いろいろな角度から写真が撮れるように飾られていたので、これがあのフルートの大王の名高いフルートの遺品であろうと類推をした。



          珍しい古い楽器が多く、随分写真を撮ったが、どれもその由緒が説明出来ないので写真を掲げても意味がない。しかし、装飾が面白い古いオルガンと、いろいろなバセットホルンが一角に全て集められていたガラス囲いのコーナーがあったので紹介してみた。また、装飾が美しい古いチェンバロがあったので、写真を示してみた。

          フィルハーモニーの奥に複雑な建物の文化フォーラムがあり、その中央に目指す絵画館があった。ブリューゲルやフェルメールの代表作があると言うことで、それらしきものを探し出したが、沢山の個室の中で、14〜18世紀の西欧の傑作が並んでおり、見応えのあったものの一部を紹介しておく。ただし、光線の関係で、ここでは上半分が切れたように写り、満足する写真は撮れなかった。兎に角、時間があれば、じっくりと見て歩きたい内容の豊かな絵画館であった。








           この夜は、コミッシェOPが予定され、ホテルからタクシーで駆けつけ、「ホフマン物語」のドイツ語版を見てきたが、オペラは別に報告してあるので、参照して頂きたい。


4、ウンター・デン・リンデンを歩いてブランデンブルグ門へ、

           ベルリンも三日目となり、ホテルの裏側には、ベルリンで一番美しい広場と言われるジャン・ダルマン・マルクト広場(近衛騎兵市場)があり、左手にドイツドーム、中央にコンツエルトハウス・ベルリン、右手にフランスドームが聳えていた。コンツエルトハウスは、ギリシャ神殿様式を劇場建築に取り入れた傑作のようであるが、残念ながら、今回は入る機会がなかった。両側の二つのドームは、どうやら、教会の機能は失われ、ドームへ上る観光客用に開かれているように見えた。






       続いてヘドヴィヒ教会を経て、いよいよウンター・デン・リンデンの大通りに出たが、残念ながら、シュターツOPは目下工事中であった。工事中の看板が、「こうもり」「セヴィリアの理髪師」「コシ・ファン・トウッテ」などの看板が面白くて、改装中(外観か?)の建物の代わりに、撮ってきた。






          その向かえには、フンボルト大学の本館が聳えており、折角なので、建物の中に入って見た。玄関の広間の奥には、学食があり、売店もあったので、草臥れたので、コーヒーを飲んだり、買い物をしたりしてきた。

     広い通りをブランデンブルグ門に向かって歩き出すと、リンデンバウムの影には、もう高い門が見えていた。この門に近づくにつれ「ベルリンに遂に来た」という感慨が湧き出てきたが、生憎、雨が降ってきて傘が必要であった。






        このベルリンの凱旋門は、1788〜91に建てられたプロイセン王国の凱旋門として建てられ、重厚で威厳のある門である。モーツアルトが訪問したときには、丁度、工事中であったと言える。門の上には、勝利の女神と4頭立ての馬車カドリガが飾られており、ベルリンを象徴している。この門は、東西分裂時代には壁を兼ねていたが、軍によって守られて、自由に行き来が出来なかった。




  この左手の写真の意味がお分かりであろうか。これはこの門の直ぐ南側にあるユダヤ人犠牲者記念館がある公園の一角であり、目に入るのはユダヤ人を埋葬した棺が立ち並ぶ不思議な公園であった。また、右の写真は、門の北側に聳えるように立つドイツ連邦議会議事堂であり、ナチス時代に1933年に戦災で崩壊後、戦後は西ドイツ側にあったが、東西ドイツ統一後、8年をかけて大改築を終え、屋上にあるガラスドームが有名なようであるが、長蛇の列でもあり、入るには外国人はパスポートがいると聞かされて、予定を変更し、ここからタクシーに乗り、戦勝記念塔で降りて写真を撮ってから、クーダムへ直行し、そこで昼食を取ることにした。






4、クーダム、グルーネヴァルト駅17番線、シャルロッテンブルグ宮殿、


    ベルリンの誇るテイーア・ガルテンは、ブランデンブルグ門から出発し、広大な公園の中央に戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)があり、西側にベルリン動物園や廃墟になって残されていたカイザー・ヴィルヘルム記念教会などがあり、クーダムの通りに続いていた。




         クーダムの広い通りには、動物園が近いせいか、ベルリン市の動物のシンボルであるヒグマの4頭立ての石碑があり、珍しいので写真に納めてきた。この通りの何処かに、明日乗り合わせるポツダム・サンスシー宮殿一日ツアーのバスの集合場所があり、その確認が必要なこと、タクシーが早かったので時間に余裕があり、明朝に予定していた「グルーネヴァルト駅17番線」をこれから見てしまおうという相談を食事しながら決定した。通りに面したレストランに、偶然、入ったが、ここはベルリンでも有名なケンピンスキー・ホテル・ブリストルであり、後で調べると、ケネデイ大統領がベルリン滞在中利用したホテルであることが分かった。ここでは隣に座っていた貴婦人と同じように、スープとサラダを注文し、一人約20ユーロで、丁度良い分量と値段であった。






   ここでこれから行く「ベルリン・グルーネヴァルト駅17番線」には、一言説明を加える必要がある。ベルリンの西方ポツダムに向かうSバーンの郊外の駅グルーネヴァルト駅は、いまでは静かな住宅地を持つ街であるが、1941年ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害し、この駅の17番線が、当時、ベルリンに住むユダヤ人を強制収容所に大量輸送するために設けられた駅であった。駅には島式ホームが2本あり、周囲は緑に囲まれた閑静な住宅地であるが、この専用ホームだけが当時を偲ぶことが出来る様に残されていたのであった。ホームには、列車が出発した日付と行き先が、びっしりと書き刻まれていた。訪れていたのはわれわれだけという静かな雰囲気であったが、2度と起こしてはならぬと言うドイツ人の執念のようなものが感じられた。








           シャルロッテンブルグ宮殿は、初代プロイセン国王フリードリッヒ一世の妃ゾフィー・シャルロッテの夏の別荘として1965年に建てられて、現在のような姿になったのは1790年の頃であるという。宮殿本棟のほか歴史の間、陶器の間など数限りのない居室が目を見張るように飾られて保存されていた。
           この夜はベルリン・ドイツ・オペラで待望の「魔笛」を見る日であり、またベルリン最後の夜であったが、オペラを見て荷物を片付け、風呂に入ったらバタンキューの状態であった。


5、ポツダム・サンスシー宮殿の一日バス・ツアー

           当日は、ベルリンのホテルを出発し、ライプチヒに列車で移動する日であり、ホテルをタクシーで出発し、荷物をベルリン中央駅に預けてから、身軽になって、クーダムのバスツアー出発所に出かけた。10時出発で、ポツダム市内を巡り、サンスシー宮殿を見てから、2時にここまで戻るツアーであった。


            ベルリン中央駅は、2006年に完成した中央駅で、さすが大規模で壮大な広がりを持ち、荷物の一次預かり所なども合理的に出来ていた。

     さて、ポツダムが今のように、賑わっているのは、プロイセン王フリードリッヒ一世(在位1740〜86年)が夏の居城として1747年に建てた華麗な「サンスーシー宮殿」のお陰のようである。このサンスーシという意味は、フランス語で「憂いのない」という意味であり、プロイセンの歴代王が愛し続けたお陰で、いろいろな宮殿が各所に散在していた。そして、1945年の第二次世界大戦末期に、米・英・ソ連の首脳会議が開かれて、ドイツの戦後処理などが話し合われた場所になっている。






   ベルリン市内をバスで出て、直ぐにアウトバーンに乗り、30分ぐらいでポツダムに到着した。湖が多い避暑地といった僂梁燭さ嵶傭呂任△辰燭、サンスシー宮殿までは、バスの車内から一切下りずに、車中で説明を聞いたが、良く分からない上に、写真の取りようがなく、わずかに絵になりそうなバス車内からの写真をアップしてみた。


             サンスシー宮殿については、写真に示すDVDを購入したので、安心したせいか、余り良い写真が撮れていなかった。大王が自らスケッチ画を書いて指示をしたという宮殿は豪華なもので、戦災に遭わなくて幸運であったと思われる。









   この宮殿とフリードリヒ二世が愛したフルートとは関係が深いものと見えて、フルートが音楽室に飾られていた。執務室、応接室、図書室などを巡り、大理石の間で豪華さに感嘆をした。広大な庭園から、階段を上り詰め、サンスーシと書かれた正面が本棟の入り口で、今回はこれが閉ざされているようだった。

           帰りのバスが予定通り、2時丁度に着かなければ、ライプチヒ行きの列車に遅れる心配も予想していたが、この日はアウトバーンの渋滞もなく、全く予定通りに、2時丁度に戻ってきたので、さすがドイツだと感嘆をした。

           それから予定通り列車に乗り、無事ライプチヒ駅に到着したが、ライプチヒはこれで3度目であり、聖トーマス教会の「マタイ受難曲」は2度目 であり、期待が膨らむ。以上でベルリンの写真集−1および2は完結したが、ベルリンはやはり活気があり、クラシック音楽の土台を築いている素晴らしい都市であり、ウイーンなどと並んで、何回も訪れたくなる豊かな都市であると思った。

(以上)(2012/05/02)


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