(懐かしいS-VHSより;91年モーツァルトイヤーの国立音大の「イドメネオ」K.366)
12-10-3、フォルカー・レニッケ指揮、ミハエル・ハンペ演出による「イドメネオ」K.366、国立音大イドメネオ記念オーケストラ、

−この国産の国立の映像については、当時の新しいメデイアであったLDを活用して驚かせたレヴァイン・ポネルによるNYメトロポリタン歌劇場による大劇場型のスタイルから一変して、ハンペ演出による簡素化された地味なオペラ・セリアの舞台に引き戻すとともに、リブレットに忠実な演出を行なって、改めて名実ともに古代ギリシャ劇場の世界に軸足を置いたことにある。そして、特に、第三幕の幕切れの声の前後の生贄の場面に於いて盛り上がりを高め、天をも感動させて、あの声を生み出させるような工夫が加えられていた。これは、非常に感動的であり、説得力があって、最近の演出に、強い影響を与えていると思われる−

(懐かしいS-VHSより;91年モーツァルトイヤーの国立音大の「イドメネオ」K.366)
12-10-3、フォルカー・レニッケ指揮、ミハエル・ハンペ演出による「イドメネオ」K.366、国立音大イドメネオ記念オーケストラ、
(配役)イドメネオ;カーテイス・レイヤム、イリア;出口正子、エレットラ;下原千恵子、イダマンテ;永井和子、アルバーチェ;角田和弘、大祭司;福井敬、声;田島浩一、合唱;国立音楽大学、
(1992年02月15日、NHK教育TV 芸術劇場の放送をS-VHSテープに063.1として収録)

            第三曲目は91年モーツァルトイヤーの国立音大の「イドメネオ」K.366であり、ミヒャエル・ハンペ演出のS-VHSビデオでNHKの芸術劇場での映像である。映像の最初に海老沢先生の解説があり、昨年の国際シンポジウムでこのオペラ・セリアが研究テーマの一つで、上演もしてみようということになったようである。指揮者・演出者・主題役は海外に、他の出演者は国立音大の卒業生でまとめたようであり、新全集による当時としては意欲的な取り組みであり、第一・二幕と第三幕の間で休憩が置かれていた。このオペラは「イドメネオ」全8本の中で最後のアップロードになるが、私の印象ではリブレットに忠実な演出であることと、言ってもしようのない話であるが、イダマンテが小柄な女性では歌が良くても線が細く、やはりウイーン版の方が良いと感じさせた印象を持っていた。今回の再チェックでは、第三幕後半の声の部分の前後のリブレットの取り扱いと演技に重点を置いて視聴したいと考えている。



    指揮者フォルカー・レニッケも、イドメネオ記念オーケストラも初めての登場で、主題役イドメネオ、カーテイス・レイアムも初めてであったが、日本人歌手たちは名前ぐらいは知っている方々であった。古代のギリシャ劇場を模倣した半円形のアリーナの奥に海が見える構図の舞台が示されて、早速、序曲が威勢良く開始され、序曲とともに出演者たちが字幕で紹介されていった。序曲の後半には、第一幕から第三幕までのあらすじが紹介されて、序曲の終了とともに、青い海を背景にイリアの出口正子が一人で登場して来て、広い舞台で長いレチタテイーボを歌い出していた。囚われの身でありながら敵への憎しみを忘れ、命を救ってくれたイダマンテへの思いが募る身を嘆くものであり、続いて第一曲「父よ、兄よ、さらば」と歌い出し、歌も演技もまずまずの出だしであった。



           そこへイダマンテが登場し、イリアを見つけてトロヤの捕虜達を解放すると告げ、イリアへの愛を告白していた。セリアのアリアらしく力強くしっかりと歌われた説得のアリアで、終わりにはカデンツアまであり、女流のイダマンテの永井和子がヴェテランらしくしっかりと歌って、後半にはあなたが望むならと刀を胸に当て、死をも辞さぬと愛を誓い、大きな拍手を浴びていた。舞台には大勢の合唱団が登場し、王子と王女の前で二つの民族の友好の喜びを歌う全員の合唱があり、二人のクレタの男女の二重唱と、二人のトロヤの男女の二重唱が合唱を挟んで歌われていたが、実に迫力ある合唱団であった。合唱団は国立音大の合唱団であった。それを見ていたエレットラが、「王子は敵をかばいすぎる」とたしなめていた。





            そこへアルバーチェが突然現れ、イドメネオ王の死の悲報を伝えたため、状況は天国から地獄へと一転した。イダマンテは仰天し、兎に角、現地へと赴いた。居合わせたエレットラも驚くが、味方の国王を失うことになり、周囲は敵ばかりと激しい怨みのアリアを歌い出した。濃紺のドレスを身にまとい、身勝手な王女の役がピッタリで、速いテンポの早口のアリアとなっていた。王女が嵐のように立ち去ると、嵐の中、暗闇の中で大勢の人々の合唱が始まり、荒れ狂う海の嵐の中を逃げ惑う人々の助けを呼ぶ合唱となっていた。「神よ、お慈悲を」と歌う合唱は、海で嵐のため遭難し、逃げ惑う人々を示していた。





            そして砂浜では、「ついに助かった!」と九死に一生を得たイドメネオ王が一人、やつれた姿で起き上がって、海神との約束に怯えながら苦悩するアリアを歌い出した。「悲しげな亡霊につきまとわれるだろう」と歌っているところへ、運悪くそこへ姿を現したのが、難民を助けようと駆けつけてきた王子イダマンテであった。イダマンテは見知らぬ兵士と思って声をかけ、相手が父であると知った喜びも束の間に、顔を背けた父親に「お前は今ここで私と会うべきでなかった」と突き放され「後を追うな」と言われていた。呆然として父を見送るイダマンテは、悲痛な気持ちを表すアリアを速いテンポで歌っていたが、「懐かしい再会だったのに、今は死ぬほど苦しい」と訳が分からずに絶望的にアリアを歌っていた。





             ここで、大勢の兵士達が登場し、幕間劇(インテルメッツオ)として、第八曲の王や兵士たちの凱旋の行進曲に続き、第九曲のネプチューンを讃えようと全員参加の合唱と踊りが伸び伸びと披露されていた。王の苦悩を知らない人たちによる幕の最後を飾るスペクタクルなパレードと戦勝の祝典であったが、ここでは行進曲も合唱も短く簡潔に行われていた。






           第二幕に入ってイドメネオ王が密かにアルバーチェに助けを求めると、彼は王子を遠くに逃げさせることを進言し、続いてアルバーチェが「王座を望むものは、遠くで学ぶのだ」と歌っていた。このアリアは、カストラートのために書かれたコロラチューラを交えた三部のアリアであり、堂々と歌われていた。二人の結論は、エレットラとともにアルゴスの地へ送ろうと、準備がアルバーチェに任せられていた。





   そこへイリアが登場し、イドメネオ王にご挨拶。長い間苦しみと悲しみが続いたけれど、王子が自由の身にしてくれたと礼を述べ、オーボエとファゴットの美しいオブリガートが付いた美しいアリアを親しげに歌いだした。このイリアの優しいアリアで、イドメネオはイリアと王子との恋を察知し、そうなれば三人が生贄にされてしまうと気がついた。そして「折角海から脱出したのに、再び海神が私を脅かす」と自分の心中の不安のアリアを歌っていた。これは「おのれ憎い海神め」と激しい気持ちを歌う本格的なコロラトウーラ・アリアであり、終結部にはカデンツアまで着いた堂々たるアリアであった。





          一方、王子と二人で本国のアルゴスに帰ることになったエレットラは、イドメネオ王に感謝して、笑顔を浮かべながら無上の喜びのアリアを歌っていた。これは彼女の女らしさを示したアリアであったが、そのアリアが歌い終わらぬ前に、遠くから快い行進曲が聞こえてきて、この響きは出発の合図だと歌っていると、そのうちに船が到着していた。大勢の人々が駆けつけて、「海は穏やかだ。出発だ」という合唱が静かに始まった。この合唱の中間部では、エレットラが「そよ風よ、吹け」と美しい穏やかな歌をソロで歌い、再び合唱が繰り返されて、出発の準備が整ったように見えた。





         そこへ王と王子が駆けつけ、イドメネオはイダマンテに「直ぐに出発せよ」と命じ、別れの三重唱となっていた。王は息子の無事を祈り、息子はイリアとの別れを悲しみ、エレットラは恋人と一緒の幸せを願いながら、それぞれの思いを込めた三重唱が続くうちに、どうやら急に嵐が迫ってきたようであった。画面は突然暗くなり、音楽は嵐が急に迫る音楽に変わって人々は「何という恐ろしさ」と騒ぎだした。「天の怒りだ」と騒ぎ出して、「罪人は誰だ」と大騒ぎになっていた。これを見て、イドメネオ王は天に向かって「罰せられるのは私だ」と白状するが、海は荒れ狂い、凄さを増していた。海神らしき姿も見え、遂に人々は身の危険を感じ「走れ、逃げろ」の大合唱となり、混乱の中で第二幕が終結した。





              第三幕は、王宮の前で一人静かに歌う純情なイリアの愛の歌「そよ風よ、彼に伝えて、愛していると」で始まった。このアリアは、テンポも良く、声も良く、伴奏も美しく、背景の海の色も美しかった。そこへイダマンテが死を覚悟で怪物を退治に行くとイリアに別れに来たが、二人は互いに苦しみを打ち明けているうちに、愛を誓い合うことになり「愛の喜びは生の喜び」と素晴らしい愛の二重唱に発展していた。





              しかし、イドメネオ王とエレットラにその場を見られてしまって、イドメネオに「速く出発せよ」と命令されて、イダマンテは「一人で当てもないさすらいの旅に出よう」と歌い出すと、イリアは「死んでもついて行きたい」と歌い出した。それを見て、イドメネオは海神を憎み自ら犠牲になりたいと願い、エレットラは嫉妬の余り復讐を誓って、四人がそれぞれの悲しい思いを歌う四重唱となっていた。そこへアルバーチェが駆けつけ、王宮の前で民衆が対話を求めて集まっていると報告し、シドンの街の滅亡を心配して「王宮は苦悩の館だ」と語っていたが、ここで歌うアルバーチェのアリアは省略されていた。





               場面は王宮前の広場、激しいオーケストラの伴奏が始まり、高僧がレチタテイーボで「今や町中は流血と死人で溢れている」と叫んでいた。そして「王よ、もう猶予は出来ない。生贄は誰か」と迫って来た。イドメネオは覚悟を定めて「皆聞くが良い。生贄はイダマンテだ」と答えると、「恐ろしい悲劇!」と民衆の大合唱が始まった。合唱の中間部では「王子に罪はない。」と高僧がソロで歌っていたが、合唱が復唱されていた。「恐ろしい誓いよ」と繰り返される不気味な長い合唱であった。





  続いて静かに行進曲が始まって、祭司たちが祭壇の準備をし始め、そしてイドメネオはゆっくりと高僧とともに祭壇に進む。「海神よ、生贄をお受け下さい」と祈りが始まり、ピッチカートの伴奏によるカヴァテイーナと男性合唱が続いて、祈りの神事の合唱が祭司たちの始まっていた。中間部ではイドメネオが「怒りを静めてくれ」とソロで歌い出し、最後に再び祭司たちの合唱が反復されていた。





               そこへイダマンテが怪獣を退治して勝利を告げる明るい合唱が聞こえてきた。何事かと驚くところへ、全てを悟ったイダマンテが静かに登場し、父に刀を手渡してひざまずいた。そしてイダマンテは、レチタテイーボで「命を授けてくれた人へ命をお返しします」、「私の代わりにイリアを娘として」と願っていた。イドメネオは殊勝な息子の姿に「出来ない」と叫んでいたが、父は息子に「慈悲は不要です」と励まされて、遂に「息子よ、許せ、死んでくれ」となって二人は最後の抱擁をしていた。そこへイリアが「イダマンテに罪はない。私を生贄にして下さい」と飛び込んできた。高僧の抑えも聞かずにイリアは勇敢で雄弁であり、イダマンテの言葉もはねのけて、「ネプチューンよ。私の身を捧げます」と、一人で身体を差し出した。あっという間であるが、これほど雄弁で行動的なイリアの姿は、初めての試みのように見えた。





                そこで厳かなトロンボーンの響きが三度こだまし、空中には海神の顔らしきものが浮かび、厳かに信託の声が響き渡る。「愛が勝利した。イドメネオは退位し、イダマンテが王になり、イリアは妻になれ。海神も納得し、天も満足しよう」。この意外性にイドメネオは「慈悲深い天よ」と祈るだけで言葉がなく、イダマンテとイリアは抱き合い、それを聞いた民衆は呆然と立ちすくんでいた。





         実に感動的なシーンであったが、そこにエレットラが飛び出して、「心は乱れ、怒りに燃える」と叫びながら、恋人を取られて嫉妬に駆られたレチタテーボが始まり、半狂乱になって歌う絶望的なアリアで現実に戻った。場違いのような感じで「夜の女王」のようなアリアを歌って、彼女はナイフを振りかざして自殺のような素振りで海に飛び込んだが、アリアそのものは半狂乱の実に激しいアリアで素晴らしかった。





          やがてイドメネオが「皆の者よ」と語りかけ、堂々と政権交代の布告のレチタテイーボで始め、新しい王と王妃を紹介し、再びクレタに平和が訪れたことを全員にしみじみと告げていた。イドメネオが静かに立ち去る姿が印象的であった。そして祝典の大合唱がフルオーケストラで始まり、舞台は大勢の人々が賑やかに二人を祝福し、ハッピーエンドの大団円となっていた。素晴らしい感動的な終わり方であり、新全集に追加されているバレエ音楽については省略されていた。





    この国産の国立の映像については、モーツァルトイヤー・シンポジュームの副産物とでも言われそうな公演であり、主催した海老沢先生と演出家ミヒャエル・ハンペの合作とも言える斬新なものであった。その特徴は、当時の新しいメデイアであったレーザーデイスクを活用して驚かせたレヴァイン・ポネルによるNYメトロポリタン歌劇場による大劇場型のスタイルから一変して、ハンペ演出による簡素化された地味なオペラ・セリアの舞台に引き戻すとともに、リブレットに忠実な演出を行い、改めて名実ともに古代ギリシャ劇場の世界に軸足を置いたことにある。そして、特に、第三幕の幕切れの声の前後の生贄の場面に於いて盛り上がりを高め、天をも感動させて、あの声を生み出させるような工夫が加えられたことにあろう。すなわち、レヴァイン・ポネル盤で不足していた最後の生贄の場面において、リブレット通りにイリアのセリフを省略なく語らせ、さらにイダマンテからイリアが自ら生贄になって天を驚かせ、これが天の声を引き出させたように思わせる演出になっていた。これは、非常に感動的であり、説得力があって、恐らく、今後、この場面の演出に、重要な影響を与えると思われた。





                  国立音大による公演は、純国産であるかと思っていたが、演出はハンペであり、指揮者のレニックや、主題役のレイヤムや外国人の登用であり、国際シンポジュームに相応しい海老沢総監督の指導による者と思われるが、歌手陣は全て、合唱団を含めて国立音大の関係者のようであり、恐らくイドメネオ記念オーケストラも国立関係者であろうと思われる。
           映像ではNHKのアナウンサーが海老沢先生と演出者ハンペとの語りが収録されていたので、その一部をご披露しておきたい。海老沢先生は、このオペラはオペラ・セリアであることを強調なさっており、セリアの形式を重視なさると同時に、このオペラがセリアの枠組みを超える作品であることも重視されていた。すなわち、半円形のアリーナと海が、この舞台には欠かせないと指摘なさっており、海が真っ青であったり、嵐になったり、雷鳴が轟いたり、多様な表情を見せるとともに、その変化に応じて合唱団が活躍するのは、これまでのセリアにはなかったと指摘されていた。

       演出者ハンペは、半円形のアリーナは、ギリシャ神話の舞台には欠かせないと語り、この場は裁判の裁きの場でもあると述べていた。また、人間と自然の関係、特にこのオペラでは海が重要であるとして、海の全ての表情が音楽で表されているとして、合唱団の重要性や海神の存在への工夫などを熱っぽく語っていた。また、このオペラは、オペラ・セリアの頂点であり、かつ、終焉でもあったと語っていた。彼が指摘していたオペラ・セリアの枠を超えるものとして、大規模な合唱のシーン、エレットラの個性とアリアの存在、オーケストラ伴奏によるレチタテイーボ・アッコンパニアートの多用は例を見ないとしており、声の前後の場面はこの連続であった。また、セリアでは最後には支配者が勝利するが、このオペラでは、勝利しないで退位していると指摘し、改革の後に息子夫妻に希望を託しながら、心安らかに耐念の境地で舞台を去るのは、モーツァルトらしい新しい試みであり、従来のセリアの形式を打ち破るものであろうと語っており、非常に印象深かった。

        タイトルロールのイドメネオの役は、声ばかりか国王と父親とを演じ分ける難しい役であるが、レイヤムはその両方をしっかりとこなしていた。また、三人の女性歌手陣も熱演であり、素晴らしいと思った。しかし、これは言ってもしようのない話であるが、これがウイーン版でイダマンテが男性であれば、もっと自然であろうと述べておきたい。モーツァルトがそのために改作したアリアを聴いてみたいという希望を申し上げておく。。(私の希望は、モーツアルトがカストラートが得られないことを理解してウイーンで改作したウイーン版(イダマンテが男性役)を使い、第三幕が今回のように充実した映像を期待したいのであるが、無理であろうか。)
        なお、古いS-VHSテープの三倍速のせいか、また画面が暗いせいもあって、全般的に写真写りが悪く、一時停止すると画面にノイズが走るので、シャッターチャンスを上手く捉えることが出来なかったせいもあり、真に申し訳なく思っている。


                        (以上)(2012/10/27) 


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