「東北復興地視察と松島・気仙沼の旅」

−東北地震の大津波で被災した海浜地域を二泊三日で訪問する−

「東北復興地視察と松島・気仙沼の旅」
−東北地震の大津波で被災した海浜地域を二泊三日で訪問する−

  倉島 収(千葉県柏市K.449)

1、はじめにー9月の東北の旅の概要ー 

      今年80歳になり、そろそろ自分の人生の終活の時期を向かえて、最近では近所のお寺とのお付き合いを大切にしているが、このたびお世話になっている慈本寺の主催で、「東北復興地視察と松島・気仙沼の旅」が9月6日(火)から8日(木)まで、二泊三日で予定されていたので、今年は家内とともにこの旅に参加することとした。慈本寺の住職さん、副住職さん始め、檀家の総代さん以下一行19名の大勢の信心深い皆さんと一緒の最初の安心出来る楽しいお任せのバスツアーであり、松島以外は始めて訪問する地であったので、とても自分には勉強になり参考になることが多かった楽しい旅であった。毎年、お寺ではこの献花やお経を捧げるような旅行企画があるようなので、これからも喜んで参加したいと考えている。

        行き先の概略を述べると、まずバスで常磐道を走り抜け、塩釜から松島遊覧船に乗り、海上にて献花をし、本堂の新装なった伊達家菩提寺・国宝瑞厳寺を訪問するのが第1日の目玉であった。この日は南三陸温泉(ホテル観洋)に宿泊する。翌日は、南三陸町の防災庁舎で供養(語り部とともに復興地視察)を行ない、続いて気仙沼復興市場を訪問し、唐桑半島ビジターセンター・津波体験館や陸前高田の奇跡の一本松などを見て、2日目の宿泊地気仙沼温泉(プラザ・ホテル)に宿泊する。三日目は、海産物センターに立ち寄り、登米みやぎの明治村・教育資料館に立ち寄り、仙台で瑞宝殿を見てから、常磐道経由で柏に到着する予定となっていたが、途中で台風が来るなどの心配があったものの、ほぼ予定通りの行程で、楽しく有意義に旅を終えることが出来た。


2、始めて通り抜けた常磐道と三陸自動車道、

       常磐自動車道については、柏インターから磐城で乗り換えて会津の方に行ったことはあるが、磐城以北は全く入ったことがなく、それから宮城県道路公社による三陸自動車道が南三陸町近くまで延伸されていたことは全く知らなかった。今回の旅行のバスの走行距離は、往復全体でおよそ1200キロであると聞いていたが、恐らくは南三陸町以北の100キロほどを除くと、全てこの常磐道・三陸自動車道を走ったことになろうと思われる。しかし、磐城インター以北は、殆どが往復2車線の高速道路であることも面白かった。アクセス制限されて走行は早いのであるが、追い越しが出来ないのでトラックの後に長い乗用車の列が続くことを何度も目撃した。追い越し車線がたまにあると、まるでサーカスのように生き生きとして乗用車がトラックを追い抜いていたのをみた。早く往復4車線の道路にして欲しいと考えるのは、みんなの願いであると言うことをつくづく教わったような気がする。



       常磐道が福島県に入り、広野・富岡・浪江を通ると、遠くに破壊された原発の煙突が見え始め、両側の風景がすっかり変わった様に思われた。それは原発による放射能の汚染地域であり、人家が見えても人が住まず、田や畑は草ぼうぼうの姿であり、見かけるのは畑にあるビニールシートを被せた除染土壌の山であった。それを確認できたのは、パーキングエリアのトイレの入り口に、写真左のような各地のインター周辺の汚染状況のお知らせであり、写真の数値では、富岡から浪江にかけてが汚染が著しく、南相馬に入ると安全であるように掲示されていた。写真右は浪江で見かけたビニールシートの山であるが、このような様子は高速道路の両側の各地に山となっており、行き場所がないことを訴えているように見えた。被災後五年経ってもこのように手つかずの状況であるから、これから報告する津波被災地の復興状況と較べれば、大変な問題が残されていると痛感させられた。

       三陸自動車道の往復2車線の高速道路を走ってみて、宮城県の道路公社の手による道路のせいか、インターチェンジの密度が高く、地域とのアクセスを重視していることが良く分り、利用しやすい道路になっていた。往復2車線の高速道路のため、追い越しが出来ないが、それでも信号交差点がないため、充分に高速道路としての役割は果たしている。従来は海岸の国道45号線しかなかったため、非常に便利になったという感じがする。早く、2車線でも全線が開通するよう祈っている。


3、松島湾遊覧コースで塩釜から松島瑞巌寺まで、




       松島へは、マリンゲート塩釜から船に乗って、島巡りをしながら松島へと向かう船便であるが、途中で今回の震災や津波で亡くなった方への献花をするのが目的であった。島で囲まれた松島湾はさぞ大津波で大変であったろうと予想していたが、湾内の水深が10メートル以内と浅く、湾の外側を囲む島々のお陰で、津波の被害は島の文化財の一部が破損したり、島が大きく浸食された程度で治まったようであった。島のない東松島市や石巻市では大変な津波災害が生じたのとは対照的であったようである。松島へは震災前の2010年に訪問し、島巡りと瑞巌寺を訪れた詳細な報告がこのHPでなされているのでご覧いただきたいと思うが、島の形がどのように浸食されて変容したか見較べていただきたい。




       外洋に面して仁王さまのように聳える仁王島(写真左)や、四つの空洞を持ちその四つの穴に打ち寄せる波音が鐘を打つ音に聞こえるところから鐘島という島(写真右)は、前回の写真と比較が出来るようであるが、明らかに浸食が進み、松の緑が少なくなっているようである。ガイドさんの話では、松の葉が落ちてきたのは、最近増えてきた黒鵜の糞害で、松の木が駄目になってきたという話であった。外洋から内湾に入ったところで、般若心経を唱えながら、海中に花束を捧げて犠牲者の方々のご冥福をお祈りしてきた。


       松島に上陸してから、早速、見覚えのある彫り物の多い洞窟の前の道を通り抜けて瑞巌寺へと向かった。前回は工事中で見られなかったが、本堂(国宝)内の正面の孔雀の間を見てから、道順に沿って左回りに本堂を一周して各部屋を覗いてきたが、残念ながら撮影は禁止されていた。
       その夜は、南三陸町の「ホテル観洋」という大きなホテルに宿泊したが、夜食に出た新鮮なアワビとズワイガニがとても美味しかった。明朝からは津波に襲われた地域を視察する。


4、南三陸町防災庁舎・供養



       朝八時半にホテルを出発したが、バスにはこれから行く南三陸町防災庁舎の現地供養のため、語り部の方から話を聞きながら災害現地に到着した。周囲は工事中のため、残された防災対策庁舎の骨組みを遠望しながら、祭壇に献花し、住職さんのお経の下で、防災庁舎の屋上に避難したものの想像を上回る津波のため流された多くの方々と、最後までマイクを握って避難を呼びかけて犠牲になった若い女子職員のご冥福を深くお祈りした。語り部のお話しでは、50年以上昔の5.7メートルのチリ津波がこの地域の避難の目標だったため、10mを超え、15.5mという想像を絶する巨大津波に逃げ遅れ、犠牲者が増大したという。その反面、祭壇の脇に残された5階建ての建物の鉄骨の骨組みが残されていたが、この建物は泊まったホテルの結婚式場の建物で、この建物では4階以上に避難した人は全員助かったという。これらの建物の骨組みは、災害の貴重な遺跡として、将来に語り継ぐために残されると語っていた。


5、唐桑半島の津波体験館と陸前高田市の「奇跡の一本松」



       南三陸町の復興工事現場を目にしながら、国道45号線を北上し、歌津の津龍院という住職さんの親しいお寺に立ち寄り、さらに北上して気仙沼の復興中の市内に入り、今晩宿泊するホテルで昼食となった。午後からは、気仙沼湾を造る唐桑半島の先端にあるビジターセンター・津波体験館をまず訪れた。ここでは、地震発生から津波が来襲するまでの様子を、映像・音響・振動・送風などの効果を組み合わせて、津波来襲の様子をバーチャル体験するもので、椅子の手摺りにしっかり掴まっていなければ飛ばされそうになる疑似体験を味わうことが出来た。気仙沼を中心とした災害時の膨大な写真展があり、それを編纂した「市民が伝える「気仙沼の大震災」永久保存版」という写真集があったので、記念に購入してきた。


       続いて、さらに国道を北上し、陸前高田市に残された「奇跡の一本松」の周辺に到着したが、この市内の海浜周辺は至る所で復興のための工事が進捗中であり、大型トラックが往き来してまさに戦場の中のような様子であった。バスが駐車すら出来ないため、残念ながら「奇跡の一本松」は車中から遠望するに止まった。車中だったためろくな写真が撮れなかったが、一本だけ残された高い松の木の奥には高い防潮堤が築かれており、海は見えずに湾を造る山並が見えていた。この松の木は、松林が全て流されて一本だけ残されたことを遺跡として残すため、寄附による浄財により人工的に残されたという。残念ながら近くで見ることが出来なかったが、復興工事が一段落した別の機会に改めて見学に来たいと思った。

      この日は気仙沼プラザホテルに宿泊したが、夕食会も2日目になると、リラックスして初参加の者でも話が弾むようになり、食後はカラオケ大会のような雰囲気であった。お料理では美味しいものだらけであったが、フカヒレのスープが格別であった。


6、登米・みやぎの明治村・教育資料館、

       ホテルの直ぐそばに海産物の市場があったため、海産物のお土産を購入したが、ここでお金を落とすことがこの地域のためになるので、これも目的の一つとばかり、皆さん買い物に忙しいようであった。私は老夫婦ふたりのため、ニシンの昆布巻きと仙台名物のササカマにしたが、さすが晩酌のつまみには充分なおいしさであった。




       続いて、宮城県の明治村として名高い登米町の教育資料館に案内されたが、何とここは国指定の重要文化財として知られる「登米(とよま)高等尋常小学校」であった。ここの名物は、白いバルコニーがあるハイカラな洋風の学校建築ばかりでなく、明治以降の教育史や各時代の教科書や教材などが保存された博物館となっており、その教室の中で小学生の小さな机や椅子に腰をかけて、昼食として実際に「給食」を食べるという思いがけぬ趣向であった。珍しい鯨の肉の揚げ物や子供の好きなカレーシチューなど、普段口にしない学校給食の味を思い出しながら、「ふるさと」の小学唱歌を三番まで歌って来た。
この町は「明治のロマンが漂う街」として、町並みが保存されているようであり、東北・宮城の観光拠点として、整備しているという印象を受けてきた。

7、仙台市内の「瑞鳳殿」を訪れて、



        帰路はバスの中で、北進する台風とどこかですれ違うという行程であり、午後1時頃登米町を出発して仙台市内に入った2時頃には雨となっていたが、予定通り伊達政宗が眠る「瑞鳳殿」に立ち寄り、雨の中でこの煌びやかな建物の写真だけを撮って帰路についた。戦時中に消失したものが、昭和54年に再建され、平成13年に改修されたこの建物は、私は2度目であったが、初めて見る方が多いようであった。雨と時間制約のため、宝物館も二代目・三代目の立派な建物も見られなかったが、この地の上り坂や階段の多さは、前回は余り感じなかったので、年を取ったものだと痛感して帰って来た。


8、あとがき、

        お寺の信心深い皆様方との旅行会は初めての体験であったが、仙台・松島以外の地は始めて行く地でもあり、しかも津波災害の恐ろしさを現地で確認できたことばかりでなく、各所で力強い復興の様子を視察することが出来、非常に有り難い旅であった。それに加えて被災した方々に献花することが出来たり、お祈りを捧げることが出来たのもこの旅行のお陰と、深く感謝している。訪問できた場所は、被災した地域に較べてごく一部であるが、実際に現地を訪れて、津波の足跡を現地で確かめたり、写真に残すことが出来て、とても勉強になった。このような機会を与えて下さった慈本寺の関係の皆様方に、深く感謝を申し上げたいと思う。本文を書き上げて、この日が地震発生後、丁度、5年6ヶ月後の記念すべき日であることに気がつき、これも何かのご縁と驚いた次第である。


(以上)(2016/09/11)



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