2014年フェラインの仲間と行くロベレート音楽祭(2)−イタリア旅行編−写真集2−

−ミラノ・ロヴェレート・ボルツアーノ・クレモナ・ヴェネツイアの町並みの散策とロベレート音楽祭など−

−スイスから特急列車でミラノに到着したが、事故で1時間遅れ。ミラノで予約していたサンタ・マリア教会のダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の修復画見学がギリギリ間に合うというハプニングがあった。その夜からロベレート音楽祭に参加し、モーツァルトとショパンの協奏曲を楽しみ、翌日の夜は、久元先生のコンサート、第三日目の夜は、ターフェル・ムジーク「ドン・ジョヴァンニ」に参加した。その間に、ボルツアーノとクレモナで史跡巡りをしたが、ロヴェレートでM親子とゲーテの滞在ホテルのプレートを発見するという大収穫があった。ヴェネツイアのフェニーチェ劇場で「トロヴァトーレ」を良い席で見て、ヴェルデイの歌唱・合唱・オーケストラの三位一体のオペラを充分に楽しみ、帰路についた−

2014年フェラインの仲間と行くロベレート音楽祭(2)−イタリア旅行編−写真集2−

−ミラノ・ロヴェレート・ボルツアーノ・クレモナ・ヴェネツイアの町並みの散策とロベレート音楽祭など−

  倉島 収(千葉県柏市K.449)

1、はじめに−ジュネーブから列車でイタリア・ミラノへ− 

        今回の旅行は、スイスのルッツエルン音楽祭と北イタリアのロベレート音楽祭の二つの音楽祭にに参加することが目的であったが、当然、当フェラインの顧問であり、永年講師としてお付き合いしてきた久元祐子先生の音楽祭出演の成功を声援することが第一目的であった。最初に訪問したルッツエルン音楽祭については、スイス編として、別途、報告済みであるので、ここでは、イタリア編として、ミラノから始まった今回のイタリア旅行について、ご報告するものである。

        9月11日(木)早朝7:42分発のスイスのジュネーブ駅から、イタリア・ミラノ行きの特急列車に予定通りに乗ったのであるが、レマン湖のほとりのモントルーあたりから動きが悪くなり、事故で結果的に約1時間遅れとなってさあ大変。車掌から遅延証明を出してもらい、ミラノで予約していたサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会のダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の修復画見学13:00に少し遅れるというハプニングがあったが、そこはイタリア時間のせいか、担当の好意もあって、予定通りの15分ぐらいの見学時間であったが、辛うじて間に合った。



        「最後の晩餐」の修復画は写真が許可されていなかったが、別の部屋にあったコピー画の写真を撮ってみた。修復画と言えども、色彩は完全なものとは言えず、これが限界であると言う姿が残されていると感じた。この絵がフレスコ画でなく、油絵なので痛みが著しかったという説明を受けた。煉瓦色の教会の隣の修道院の食堂にこの絵が保存されていた。

        ミラノのダ・ヴィンチの修復画を鑑賞した後、一行は車で一路ロベレートに向かい、夕刻に到着した。音楽祭は既に始まっており、この夜のプログラムは、Borgo Valsugaraという少し離れた会場で行われるコンサートに出席した。このコンサートは、ザルツブルグの音楽・体育ジムの学生によるオーケストラであり、この音楽祭には、前回も演奏していたという記憶があった。曲目は、このオーケストラによるハフナー交響曲K.385が第1曲であった。第2、3曲目は、Anna Kravtchenkoという若い新人のピアニストによるモーツァルトのピアノ協奏曲第12番K.414およびショパンのピアノ協奏曲第2番作品21の2曲を演奏していた。このコンサートは夜の20:45分から始まっており、若い人たちによる演奏会であったので当初から余り期待をしていなかったが、旅の疲れが音楽の進行と共に出てきて、真に申し訳ないと思っているが、疲れを休める伴奏音楽となっていたようであった。
     ロベレートに着いて安心したせいもあり、疲れた体で睡眠前に日本から持ってきた熱湯があれば良い即席の気に入っている「佐野ラーメン」を食べてみた。久しぶりの日本の醤油味はとても美味く感じ、これなら推薦ものであると味わった。持参するのに嵩張るので困るが、軽くて量が少ないので、これなら安心出来ると思われる。日本味はやはり元気の源であると思った。


2、ロベレート音楽祭における久元先生のコンサートなど

       9月12日(金)17:00から、写真でお馴染みのLiberaの宮殿で、久元先生のコンサートが行われた。この音楽祭としては前回に続き2回目であるが、前回は日本で同一プログラムを事前にコンサートでこなしておられていたのであるが、今回は、それがなく、初めてのプログラムであった。前半のモーツァルトの三曲は、幻想曲K.397、ロンドK.485、ソナタイ長調K.331のいつも弾いておられる曲であったが、後半のショパンは、ノクターンが2曲、ワルツが2曲、マズルカが1曲、最後に幻想曲作品49の大曲で、締め括っておられた。



     珍しかったのが、モーツァルトの後で挟んだ新曲であったが、亡くなったアバドのお兄さんのマルチェロ・アバド(1926〜)の作曲による「Danza”Scena senza storia”」(直訳すると、舞曲”お話のないシーン”、無言歌のような曲か)の数曲のなかの1曲を弾かれたが、この曲はものすごくモダンな威勢の良い曲で、普段、先生が弾いている温和しい曲と異なって派手な曲であったので、先生のモダンな別の面を聴いたような気がして、いささか驚かされた。前回、音楽祭に通して出席しておられたアバドさんから贈られた曲のようであったが、今回はアバドさんの姿が見えず、せっかくの演奏も心残りであったろうと思われた。




   9月13日(土)には、20:30分より、この音楽祭恒例のマルツィミーノ酒をメインに行われる「ドン・ジョヴァンニ」によるターフェル・ムジークが行われた。この場は懇親の場を兼ねており、食事と懇談が楽しみであったが、今回も管楽五重奏とピアノによるアリアなどのアンサンブルとバス・バリトンとソプラノの若手歌手たちが登場して、ワインを頂きながら、AMI(イタリア・モーツァルト協会)会長の司会により進行され、いつもながら楽しい思いをしたので、写真で紹介しておこう。




         この音楽祭で気になったことは、この音楽祭は、前回は2週間であったが今回は1週間足らずで、規模が小さくなったように感じ、そのせいか参加者が少なくなったような気がした。かってはバスでフランス人が大挙して訪問していたりした思いがあるが、今回はいつもいるアメリカ人を見かけなかったり、寂しい思いをした。





         一方、この小さな街にあった木造の古いザンドナイ・オペラ劇場が改装中であったが、やっと写真の通り外観がほぼ元通り復旧して、来年に完成するとのことであった。国の補助が減ったのか、10年近くかかったのではないかと思われるが、来年以降はメイン会場になれると、期待できる情報もあった。主催者のイタリア・モーツァルト協会会長のアーノルド・ボラーニ氏が、お元気そうであったがやや老けられて、氏の手作りの音楽祭であるだけに、少し気になった。



3、モーツァルトの史跡巡り−ボルツアーノ・ロベレート・クレモナ−

        ロベレートのホテルであるレオン・ド−ロに3泊宿泊し、夜は上記の音楽祭の3コンサートに出席したが、日中は当初からヴォルツアーノやクレモナなどで史跡巡りをしようと考えていた。9月12日(金)は、ボルツアーノに行く日であり、朝9時にホテルを出発し、高速道路で北へと向かった。ボルツアーノはブレンナー峠からイタリアへの最初の宿泊地であり、モーツァルト親子もゲーテも宿泊している。モーツァルトは3回のイタリア旅行で合計6回この地を経由しており、レオポルドはこの地から1769年12月22日第1回旅行で、また1771年8月26日第2回旅行で、さらに1772年10月28日第3回旅行の途上に宿泊して妻宛に手紙を残している。手紙だけでは、情報量が限られているが、慣れてきた第3回の父の手紙には、ドミニコ派修道院を訪れ、ザルツ出身の商人の知人に会っており、息子の手紙には修道院を見物しオルガンを弾いたと書かれていた。






        ボルツアーノでは、イタリア人の案内者が待っており、あらかじめモーツァルトやゲーテのゆかりの建物や記念プレートのある建物を調べていただいており、早速、親子が訪れたであろう大聖堂と、広場の一角にあるゲーテ・シュトラーセやプレートのある建物、今は作り替えられているがドミニコ派修道院などを案内していただいた。案内人との待ち合わせ場所は、インフォメーションのあるワルテル広場であり、大聖堂が正面に見えていた。この地はドイツの影響力の強い街であり、ドイツ風の姿のドゥオーモは高い塔が目印となり、内部の祭壇は金色で飾られた重厚そのものの美しい祭壇であった。








         続いて、鮮やかな色彩の溢れた果物や野菜などが並ぶ市場が繋がったような広場を経て、ゲーテ・シュトラーセと言う名のついた路地を通り抜けたが、この一角の建物にゲーテが宿泊したに相違ないと思いながら通り抜けた。






         モーツァルト父子がザルツブルグ出身の豊かな商人の建物に招かれたのは間違いなく、それを明示するプレートがあると言うことで、その建物のそばに行き、写真を撮ってきた。確かにMozartの名の入ったプレートが現地では読めたが、残念ながら写真では明るすぎて拡大すると字が飛んでしまい、読み取ることが出来ない。しかし、同行の皆さんが写真を撮っているはずであるので、後日に、写真をすり替えたいと考えている。









       最後にモーツアルトの手紙にあったドメニコ派修道院に案内してもらった。この建物は戦災に遭って大半が破壊されて何も残されていないということであったが、有名な14世紀のフレスコが描かれた壁は残されており、内部も美しく保存されていた。どこでオルガンを弾いたかは分からなかったが、なかなか落ち着い雰囲気を持った教会であると感心しながら、帰路についた。



         ロベレートへの戻る途中、せっかくの機会であったので、モーツァルト父子が必ず立ち寄ったであろう州都のトレントの大聖堂を見ようということになり、立ち寄った。さすがロベレートよりも規模が大きい都会であり、ドゥオーモ広場は人々ですごく賑やかであり、大聖堂に続いてプレトリオ宮殿があり、立派なたたずまいを見せていた。時間がなくて中には入れず外観だけ写真を撮ってきた。

       翌9月13日(土)は、クレモナのストラディヴァリ博物館に行くということで予約を入れていた。モーツァルト父子は、第1回イタリア旅行において、ミラノに行く途上、ヴェローナ・マントヴァ・ミラノという経路をたどり、1770年1月7日にヴェローナで、また、1月11日マントヴァで、さらに1月26日ミラノで、妻宛の手紙を残しているが、この最後の手紙でマントヴァでのアッカデーミアでのコンサートの成功を伝え、その新聞(ミラノで入手)を同封しており、1月19日マントヴァを出発している。クレモナへの記述は父の手紙にはないが、息子の手紙では、姉宛にマントヴァのオペラを見た話に次いで、クレモナで見たオペラの話をしている。オペラはハッセの「テイトの慈悲」のようで、耳の良い彼は、「道化の踊りのダンサーが、飛ぶごとにおならをしていました」と記述しているので、記憶に残っている手紙である。



         父子はクレモナに少なくとも数日は滞在し、大聖堂に行き、オペラ見て、ヴァイオリンの名手である父は、沢山あるヴァイオリン工房を見て歩いたに相違ない。しかし、ヴァイオリンについて手紙には一言も触れられていないが、どうしてであろうか。目的地がミラノであり、ミラノに着いたら忙しくて、自分の報告は忘れてしまったに相違ない。われわれも東京ではマントヴァ経由でクレモナに入りたかったが、当日は土曜日で、久しぶりの好天で、交通混雑があるため、予約のあるクレモナが先行することとなった。
          大聖堂は、街の中心にあり、あの特徴ある姿は前に見たときと変わらずに、堂々たる姿を見せていた。



          案内されたヴァイオリン博物館は、「地球の歩き方」にあったストラディヴァリ博物館と別館のヴァイオリン展示館が一緒になり、丁度開館1周年を迎えるというモダンなヴァイオリン博物館に生まれ変わっていた。”Museo del Violino"が正式名称で、予約客のためイタリア語で案内者が解説するのを添乗員の通訳で各部屋を巡るというスタイルで、中は残念ながら殆どが写真撮影禁止であった。解説書によると、ヴァイオリンのオリジンから始まって、メーカーの工房一般、ヴァイオリンの歴史、古典的クレモナ風の製造工程、最高作品の展示、ストラディヴァリの付属物、最近のヴァイオリン製造法、ストラディヴァリの兄弟たち、と言う9つの各展示室を巡り歩くコースで、時間により部屋数が調整されていた。われわれは、随分時間を掛けて見て回ったが、なるほどと思うだけで余り感銘は受けなかったが、最高作品展示の部屋では、ガラスの器に入ったストラデイヴァリがずらりと並び、壮観であった。



         建物の入り口に、ヴァイオリンを持った人の銅像と、ヴァイオリンを模したコントラバスのような彫刻があり、この人こそAntonio Stradivariであろうと思ったが、確認できず残念。どうしてか土産店にもよらず博物館を出て、案内書が薄いパンフレットしかなく、写真のコピーが出来ず、誠に残念であった。
         帰りを急いでいたのは、道路の混雑情報のためであり、ゲーテの有名な逸話があるというコモ湖畔のホテルも見ずに、ロベレートへ直行した。

        


                          一方、ロベレートに早く着いて、同行の篠田さんが、今朝ロベレート市内で、ゲーテが1786年秋に宿泊したというプレートのある建物を見つけてきた。近くなので行ってみようということになり、噴水の付き当たりの左手の建物の裏側に案内された。Foot stepsによれば、モーツァルト親子が宿泊したホテルは「Imperial Hotel」と呼ばれ、このホテルに宿泊した有名人にはゲーテも含められていた。このホテルの所在地はこれまで分からなかったが、ゲーテが泊まったことを示す建物のプレートが判明したことにより、このホテルに、ゲーテもモーツァルト父子も泊まったことになる。このプレートのある建物は、今は使われていないようであるが現存しており、これは新発見であると思った。亡くなられた小滝さんからも話を聞いたことがないので、素晴らしいことだと思う。恐らく、ボラーニ会長などはよくご存じであろうと思われ、お聞きする時間もなく残念であった。


4、ヴェネツイアでの1泊−ヴェルデイの「トロヴァトーレ」を最上席で見て感動した−



         ヴェネツイアには9月14日(日)の昼過ぎ予定より早く到着し、オペラ開演が3時30分であったので、ホテルに入り次第、近場を散策しようと言うことになった。相変わらずの海と船の街ヴェネツイアは健在で、小船に乗り換えて水路でホテルに向かった。





      ホテルはフェニーチェ劇場の直ぐ裏の前回も利用したホテルで、狭いが便利なホテルであった。途中から狭い水路に入り、小舟とすれ違うにもやっとの狭い水路に入った。ここでイタリア民謡を歌うプロ的な歌手をボートに乗せた高級なボートとすれ違ったので、写真を撮った。






      ホテルについて荷物を下ろしてから、石津さんの案内でゲーテが宿泊したという建物にまず行くことにした。モーツァルトが宿泊した建物の直ぐ傍にあるようであるが、本当に直ぐ傍の建物で、立派なプレートがあり、水路に面した立派な建物であった。今日でも使われていると言うことが素晴らしい。モーツァルトが泊まった建物は、写真で取ってきたが、前回の目玉だったので掲載は省略した。






         初めての方がおられたので、サン・マルコ寺院だけでも中に入って見ようと言うことになり、行列に並んだが、中に入るのは有料になったのか、入り口の壁画を一つ見ただけで、行列は外に出てしまうようになっていた。今日は生憎の晴天の日曜日で、どこへ行っても人人人であり、早く着替えてオペラ劇場へ行こうと言うことになった。





               フェニーチェ劇場には歩いて3分。前回にはヴェルデイがこの劇場で初演した「リゴレット」であったが、今回は同時期のオペラ「トロヴァトーレ」であった。旅行前に勉強のためヴェルデイ生誕200年のパルマの映像を2回ほど見てきたが、プログラムを見ると何とこれと同じ、白馬と月夜が印象的な同じマリアーニ演出であった。そのため、非常に楽しく期待通りに進行し、素晴らしい出来映えであり、音楽に圧倒されて、「これぞヴェルデイだ」とも言うべき最高のオペラを味わってきた。座席は前から5列目の中央で、声とオーケストラと合唱の三位一体のこのオペラの響きが前面に響きわたり、まさにヴェルデイがこのような規模の劇場のために作曲したであろう音の饗宴に体ごと浸ってきた。









             歌手陣ではルーナ伯爵のA.ルチンスキが堂々として素晴らしいと思ったが、レオノーラのK.ルイスはやや細めで今ひとつの出来か、マンリーコのG.クンデもまずまずの出来で、歌手陣には殆ど問題がなく、改めて合唱の力強さを味わったり、オーケストラの響きに圧倒されたり、期待通りに次々と進行するオペラの楽しさを、充分に味わってきた。これまで味わってきたライブのオペラの中でも、今回はベスト5ぐらいに位置する感動ものであり、素晴らしい体験をした。


5、あとがき−いろいろな思い出を作った楽しい旅であった−

         今回は78歳という年齢にも拘わらず、結構きつい日程の日もあったが、兎に角、全員元気で、大きなトラブルもなく旅行が出来、結果的に各地でいろいろな思い出を作った楽しい旅であったと総括出来ることを、とても嬉しく思う。これが海外旅行の最後かなと内心思っていたのであるが、日頃の週一ゴルフの体力増強の効果が実ったのか、まだまだ行けそうだという感じすらしてきた。

         今回は久元先生や辻さんとご一緒できたほか、同行の澤田会長、石津副会長、ゲーテ好きの篠田さん、お医者さんの松永さん、海外旅行初めての船矢さんの一行8名であり、殆どを一緒に過ごした会員6名はチ−ムワークも良くとれ、全期間にわたり最高に近い天気にも恵まれ、それが一番良かったのではないかと考えている。

         (以上)(2014/10/04)


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